Want Love 5
〜君が好き〜





  
苦しい…助けて

誰か…


助けて…




胸が苦しいんだ

震えが止まらない…



身体が…まるで他の生き物みたいに
鼓動を打つように…勝手に震えてる


これは何?
なんて云う病気なんだ?


お願いだ


誰でもいい…薬を、


薬を、





分からない

この病気は、なんて云うんだ?


 

助けて




体が、震える……
胸が、痛くて、苦しい……







苦しいよ―――











     夕日が静かに沈んでゆき、暗闇の中に三日月が浮かんだ。
     コウモリが鳴いてて、月明かりを遮ったと思ったらその後から雲が流れる。
     窓越しに見る雲に遮られた月。その冷たい光が顔に映って…目が覚めた。

     何だ、俺… また寝てたのか…。
     自分が何時から寝ていたのか、又眠る前に何をしていたのか。
     …思い出そうとして脳の中心の辺りがズキッと痛みに泣いた。

     自分が未だ制服姿だった事に気付き、顔を歪める。
     ベッドのシーツが波打ってるのを見て更に面白くない。
     スカートにアイロン掛けなきゃ…と違う意味で頭痛を抱える。

     が―――、ふと思考が止まった。
     ああ…何言ってんだ俺。明日から3日間…停学、だっけ…
     ずーっと家で…ここで、じっとしてりゃいいんだろ?
     なら…もう少しこうしていてもいいんだ…別に…何もしなくても…

     起きて風呂に入らねばと思った人間としての行動に、制御を掛ける。
     洗濯もアイロンも、食事も、全てが組み立てられたシステムから零れ落ちた。
     ―――真面目なホモサピエンスの生活はしなくて良い。
     自然では無く本能のままの呼吸だけしていれば…良い。

     枕に顔を押し付けて、3回、肩と肺を使って深い呼吸をした。


     改めて3日間も1人で居られる、というこの処分についてを考える。
     ていうかかなり好都合じゃないか?…その上かなりラッキーな話。

  
      誰にも、何も言われなくて済むんだから。

      瀬音って女に目を付けられることも無い。
      あのヤンキー4人組にもギャル2人組にも絡まれることも無い。
      工藤那美に文句を言われることも無い。
  
      あの青い頭の2年に見られることも 無い。

 
      ―――柏滝に迷惑をかけることも      無くなる…。

 
   
      良い事じゃねェか。



      枕の上が水中であったかのように、ベッドの上でごろりと寝返りを打ってから
      ぷはぁ、と…酸素の多い空気中に向かって大きく呼吸をし直す。
      ああ、確かに…冷たい海で泳いでいるみたいだ。気持ちが良い…


      いつの間にか、胸の痛みも…体の震えも… 消えていた。
      ―――…俺はあの痛みを知っている気がする。
      ずっとずっと昔から俺の中枢に棲んでいる“病”。

      名前は知らないが、どうしようもなく淋しい時に出てくる… 俺の弱い核。


      正体なんて分からないけれど、どうでも良いと思う…。
      その時はその時だ。死ぬ時は死ぬ時ってこと。
      誰も俺の心配なんかしやしねェんだから。


    
 「そうだ……ナイフ、買わなきゃ……」


       小さく天井に独り言をぼやく。
       スカートの下に手を伸ばしてみたが、右太股のバンドが、軽い。
       いつもはここにあるのに。俺の大切な、―――相棒。
 
       再びベッドの上でゴロつく。
       短く切ったプリーツスカートが、グチャグチャになってるのがよく分かった…
       腰まで伸びた長い髪が、顔にまとわりついてウザイ。

       スカートの長さは、ギャル達と何ら変わらない長さだが、コレは暑がり故。
       でも下にはスカートより更に短く切ったショートパンツをはいてる。当たり前だ。
       喧嘩が出来なくなるだろ…。簡単に男共に犯されるのも御免。

       この長くなった髪の色は、明るいキャラメル色。
       以前、アメリカへ発って仕事をしている兄から手紙が送られてきた時…
       「無理矢理髪を染めさせられたよ」とメッセージ添えの写真を送ってくれた。
       その兄が、こんな色の髪になっていた。始めは驚いた。あの真面目な兄が髪を染めるなんて。
       ―――でも、だからこそ俺もこの色にした。兄と、同じにした。


       兄さん―――……     会いたいよ。



       ねぇ、兄さん…… 俺は、どーゆーわけか謹慎処分を喰らいました。
       兄さんも、「俺が悪い」って、言いますか?

       やはり俺を、叱りますか―――…?

      

 



         ピンポーン、 




       …静かな部屋の中に突然、インターホンが鳴った…
     

       ―――誰?
       俺は左腕に巻き付けたままの腕時計に目をやった。
       …今、何時?…7時半……この時間、てことは…… 大家かな…。
       学校から連絡があって、また俺がやらかしたことを説教しに来たか。

       まったく、ウゼェんだよ…。ドアの方を見ながらうんざりした。
       確かに大家は、幼い頃から身寄りの無い俺達兄妹の面倒を見てくれた人だ。
       兄さんがいなくなって1人暮らしになった小学5年生からは、完璧に母親気取り。
       まだ面倒を見ていてくれてるつもりなんだろうけど、…外見不良の俺を、いつも軽蔑した目で見てる。
       先公みたいにいちいち人の行動に文句付けてきて常に何処か1歩退いている。

       俺はあの目が、嫌いだ…。針みたいに痛くて。
       どうせアイツも周りと同じだ。俺の事など何とも思ってはいない人間。
       シカトしようか…。 今はとても人と会話なんか出来る状態じゃねェし…。



           ピンポーン、



          もう1度、静かにインターホンが鳴る。

          起きあがるのも嫌だし…いいや。放っておこう。
          俺はベッドの上でうずくまった…。枕に泣きつくように顔を埋め、唇に力を入れる。
          制服にぐしゃりと皺が寄り、3日後にはアイロンだな…とやはり考えていた。


   
 「…………」


          しばらく、間が空いた。…もう諦めたのか?
          なんだ。いつもなら合い鍵使って開けに来る位なのに。
          ちょっと意外だった。俺は首だけをドアの方に向けてみる…
    
          静まり返った部屋がやけに暗い。
          …自分から拒絶しシカトしたくせに。

          いざ消えられると淋しいと思うこの我が儘な本能―――


          馬鹿だな。 もう1度俺は、枕に泣きついた…
 






        
 「珱!!」    

  
           
「―――ッ…!?」




      びくっ、と、声に反応して体が跳ね上がった。




       
  「……………!?」




          全身に電流が走ったかの如く、俺はベッドから起こされる―――。


          今の…は―――……!!
          嘘だろ?


          でも、今のは…!!!



  
  「………―――」



          俺は玄関の方を向きながら身じろいだ。
          バクッ、バクッ、と左胸が痛い。

          嘘だ、ともう1度思った。言い聞かせたいと思った。
          だけど…玄関の向こうから、あいつ…の。声。


          あいつの…




          柏滝の声が。  俺の名前を呼ん…  だ…   ?




          起きあがってしまった半身。
          俺はそれをゆっくりとベッドから下ろし、…玄関へと向かわせた。
          フローリングがやけに冷たく感じる。…廊下が、妙に長い。
          …身体が重い…足が震える、何もかもが変な感じがする。
 
          なんだ、これ…。

          ドアの前まで来て、俺はどうしたらいいのか迷った。
          聞き間違えかも知れない。関係無い奴かも知れない。
          それ以上に、病気な俺の幻聴かも知れない…。

          小刻みに震えている右手がドアノブを取る。
          何でだよ。 何で俺、本物かどうかも分からない声に反応して、
          …こんな…動揺してんだよ…… なぁ…


     
 「柏……滝…?」

    
         小さい声で、ドアを隔てたままで恐る恐る、俺は声を発す。
         寝起きのせいで掠れていたが、充分に聞こえる音量であったと思う。
         …それに…向こうの声もちょっとビビッてたから、おあいこだ。


    
 「あっ、…橘さ……良かった、居たんだね」



        いたよ。
                                                         
 お前のこと、待ってた…
            


    
  「…ほ、本当に…お前なのか?…つぅか…何で俺のアパート…知ってるんだ…!?」

      「ごめん、先生に住所を聞いたんだ。…どうしても聞きたいことがあって」

     
 「―――……」

      「あ、開けて貰えないかな…駄目?」


                                                     
  開けて… 良いの?

      
「待って。…今…開ける…」




       そう言いながら俺はドアのチェーンを外した。
       怯える、怖れている、…妙に指先がぎこちない。

       何故? 
                                                             
 嬉しいからだ。
                                                              そして同時に――― 怖い。




     
    
  「………」


      俺は未だ自分の五感を疑いながら…ドアを開け、その隙間で外を伺う。
      見えたのは、朝あの金髪ヤンキーに殴られて切れてしまった口元を覆う、
      バンドエードを付けている…隣の席の優等生。…紛れもなく柏滝大地。

      ようやく心に確信が持て、ドアを全て押し開ける。
      それをそのまま閉めることなく…俺はドアを目一杯に開け、玄関と廊下を跨げる状態にした。


      部屋からも外からも灯りが殆ど無い。
      だが月の光だけで柏滝の表情が充分なほどに伺えた。
      ―――その顔は……あの昨日今日の眩しい笑顔ではなくて…
      眉をひそめた悲しそうな顔。…そういう顔だった。

      何故?もしかして、あの男共にまた何かされた?
      じゃあ、俺のせい? また俺のせいで柏滝はそんな顔をしてるの?


                                                         
  笑ってよ…



       彼の空色を、…見たくなくなった。



    
 「橘さん…」
     
     「………」

    
 「あの、ごめん…ちょっとだけ話がしたいんだ。近くで良いから、付き合って貰えるかな」

     「―――…此処じゃ駄目なのか」

    
 「え?あ…いや、でも……ご両親、不審がらないかな…玄関じゃ」

     「……」



    ああ…そっか。…そういう物なのかな…普通の家なら。
    あまり理解の出来ない一般家庭の常識に、心の中で首を傾げながらも
    俺は回転の良い自分の頭を褒めてやりたいと思った。
    対応も順応も―――どうすればソレっぽいかくらいはすぐ分かる…。


 
   「大丈夫…2人ともまだ出掛けてるから。暫く帰ってこないよ」

    「え?…ご両親だけで?」

   
 「ああ。…仕事」

    「あ、共働き…なんだ?そっか、…大変だね」

   
 「……」

    「じゃあ、此処で…いいや、ごめんね」



       何故こんなに重苦しいのだろうか?
       何故こんなにも、怖いのだろうか…?
       薄っぺらな偽りが剥がされる事も、目の前の空が雲ってゆく事も、
       どちらも俺にはとても似合いな筈なのに…

       柏滝の次の言葉が怖くて、耳を塞ぎたくなった……。
   
       お願いだ。笑ってくれ… 今日の朝みたいに、話してよ…



  
  「橘さん、……どうして今日…あんな…嘘を…?」
       


        やっぱりね。…そう、来たか。当然だろうけどな。
                                                                 
 笑って…
        
        今更わざわざそんな話…もう過ぎた事だ。
        …どうでもいいじゃないか。無事に終わったんだよ。
        3日間俺が大人しくしているだけで済んだ馬鹿な話じゃないか。



    
 「どうでもいいだろ」

     「よくないよ!!何故あんな、あいつらを救うようなことを!!」

 
                                                            
  怒鳴らないで…
 
        救う?あの男共4人を?
        俺が言った言葉がそう聞こえたのか。…そうか、無念だね。
        …俺が本当に傷付けたくなかった物も、救いたかった物も、
        全く別の所にあったのに。―――あいつ等でも、俺自身でもない、もっと別の…
 
        お前を守りたかっただけなのに。 やっぱりお前には届かないんだ…         

        俺は瞼を伏し、アパートのコンクリの廊下をぼんやりと見つめながら、
        ただまた、時間だけが早く過ぎる事を願う様にした。
        …何も求めたくないと思った。

        何も求めなければ、幸も不幸も、希望も絶望も、何も感じなくて済むんだよ…



           私はそれを、知っている…



   
  「橘さん、答えてくれ。どうしてなんだ」
 
    
 「…語弊があったようだね。…俺は俺の意志でああ答えただけだ。誰も救ってなんか無い…」
     
     「だから、何故!!!」



                                                               
 ―――――― 怖いよ


        伏していた瞼を、完全に遮断し閉じる。
        塞がねばならぬのは耳であると分かっているけれど。
        ―――私は現実から逃れる度胸すらも失っている。

        …逃げることしか出来ないくせに、今は逃げることさえ怖れている…


        逃げよりも卑怯な、ただの拒絶。



        私は、 酷く弱い…



   
 「橘さん、答えてくれ…お願いだ」

    「……」

   
 「橘さん!」

    「ッ……」



        柏滝の足が1歩、俺に向かって進んだ。
        彼の手が俺の肩に触れ、身体が傾いてグラリと脳味噌が揺れた。


        俺が…何故あんな答えを出したか?
        …知っている。分かっている。混乱してあんな言葉を発した訳じゃない。

        ちゃんと自分の意志で俺は… 俺のせいだと、あの場で言ったんだ。



  
  「……橘、さん?」



         俺はゆっくりと重たい瞼を持ち上げ、左右に逃げながらようやく柏滝の空色の目を見つめ直した。
         ―――見たくなかったけど、見たんだよ。拒絶には限界がある。
         逃避には限りが無いと思う…でも、拒絶は背中に壁がぶち当たる。
         これ以上の痛みには、きっと耐えられないと言うように… 身体が知っている。

         心が知っている。


            ――――――私を殺したい?


         ゆっくりと見上げた柏滝の顔は……やはり、笑ってない。
         …こいつの顔を覚えてまだ2日目だっていうのに。すごい違和感があった…。

         ああ――― 殺される。
         ……殺される…。



   
  「…確かに、柏滝を殴ったのはあの、金髪の男だ」
  
    
 「ああ」

     「けれど、…」

    
 「………何?」

     「―――……」


         言葉に詰まった。
         何故詰まったのかも分かる。


         ―――… この言葉を発したら、もう 俺を擁護する人間はこの世から消える。

         ―――…俺は自分自身さえ護れなくなる……


                                                                  
  言え


           それでも言うしか進む道が無い。
           …それがきっと、此奴の為であり、 この場の為であるんだ…。

           俺の為で無くて、良いから――――――…



           お前が諦めてくれれば、きっと俺はまた死んで、そして3日後にはまた地獄の毎日に戻るだけ……



  
  「お前は本来なら、アイツらと関わらなくて済むはずの人間だ…」

    「―――……え?」



        俺の最初の答えに、柏滝は目を大きく見開いた。
        考えてもみなかったらしい。そんな簡単な事さえ。優等生のくせにそんな事も分からないか。
        瞼が上がった。―――柏滝大地の眼鏡は、分厚いレンズだった…。


   
 「お前、これまであの金髪と会話した事があった?」

    
「……池田?…いや…無かったけど……」

    「だろう?…なのに、ちょっと俺と関わったが故にお前はあいつに殴られた」
 
   
 「……」

    「おかしいだろ」



       笑わない男の瞳を見ていたら、せざるを得ぬ自嘲を続けるしかなかった。
       …笑いたくもない。だけれども言葉を繋げられる唯一の方法だった。
       …そうしないと叫びそうだ。…訴えそうだった。
       そんな醜い自分を見られるのは嫌だ。人前で泣くのと同じだ。

       俺は、兄さんの前でしか泣きたくない……
       兄さんしか俺を分かってくれない。
       兄さんしか、泣く俺を抱いてなんかくれないよ…


   
 「そんな事…無い、俺は俺の意志で池田に…」

   
 「つまりは、俺という人間がいたからお前は怪我をした。…そうだろ?だから俺のせいなんだよ」

    「――――――…」



       何でそんな事を言うんだ。…空色はそういう顔をしていた。
       だが俺は言葉を続ける。そうしないとお前は納得しないんだろう?
       だったら地の果てまででも続けてやる。

       だから早く、…その哀れな目をヤメテ。  ―――それが俺の答え。



    
 「俺さえ居なければお前はあんな目に遭わなくて済んだよ」



         …俺の言葉に柏滝は目線を逸らした…。
         何も、言わなくなった。

         ―――……否定しないね。事実だもんな…

         俺は大きく口を開いた…



     「俺なんか居なければ良かったのにな!!!」



         月夜に、声が響く……
         開け放したドアを経て、室内にも屋外にも惨めに戦慄く。
         犬の遠吠えなんかよりも、俺の声は高く、上擦ってた…



   
 「…だから、柏滝が殴られたのは俺のせい。俺が殴ったも同然なんだ!!」

    「だから先公に言ったことは真実!お前を殴ったのは、俺だ!!!」




          ああ、また…柏滝の顔が曇ってゆく。
          笑って欲しいと思う気持ちは事実であったのに…。
          目の前の愚かな女がこんな事を言ってちゃ、笑える訳が無い。

          もとい――― 俺の為に笑うなんて、勿体無いんだ。
          お前の笑顔は、もっとお前が大切にすべき人達の為にあるんだと思う。    だから


 
    
 「だから、俺が言った事は…真実」
       
       
               工藤の言ったことも、真実だ。
               俺なんか、消えてしまえばいいのに。

               生まれて来なきゃ、     良かったのに。



                                                           
  何で生きてるの…


     
 「っ、………」

      「たち、ばなさん…」

     
 「分かったら帰れ」

      「―――、え…」

     
 「さっさと帰れ迷惑委員長!!」

      「ッ……」



        俺は顔を大きく、大袈裟なくらいに振りかぶり、空色に背を向けた。
        呼吸が―――…苦しい、そう思ったのはきっと気のせいじゃなくて、
        このまま拒絶の限界壁にぶち当たったままでいたら…

        また俺は壊される…

        そう思うと怖くなり、俺はドアノブを掴むと、壁を創って逃げ帰ろうとした。
        が、その刹那に…胸より先に肩に痛みが走る。


   
  「ッ!」

    
 「待って…!」

     「……離せ」


    
 「……待ってくれ、」



       大きな手と長い指は、簡単に俺の肩を掴んでいた。
       …男だ、と思った。―――…羨ましいと思った。
       ああ、例えば今ここでこの男に殴られたら俺は大怪我をするだろうし、
       もっと酷ければ…押し倒されて脚を開かされたら、簡単に犯される。

       妬ましかった。
       ……弱い自分が、滑稽であり惨めであり…


       無力だと思った…     逃げることも、出来ないのかと   思った……



   
 「まだ、話しは終わってない」

  
  「……」

    「逃げないで」





         
      ニゲ ル ナ ――― 





   
 「―――…!!、  っ……ぁ……う、…ッ」




                                          
 逃げるんじゃ無いよ、 この野郎!!!!



                                    助けて    助けて
                                                                    兄さん助けて

                                         助けて             助けて

                                                   誰か…!

                                                                    誰か…!!


                                                 助けて―――…!!!



        
 嫌だ―――   何だ… !?





               こ   され       こ      れる……!






                                                            殺される…







  
  「納得いかないよ、君だけ言いたい事言い切っただけじゃないか、少しは俺の言いぶ……」

    「…け………て…」



    「………!!、え?」



           
  殺  さ  れる   …



    「…え…!?」




       ポツリ、と、…コンクリートに雫が一滴飛んだ。
       それは確かに俺の頬を伝っていて、彼はそれに驚いたのだろう。

       でも俺には分からなかった。
       ただ、思った…



            お前も 俺を殺したいのか …             と  



  
  「……し、て……」

  
  「えっ…、え…!?ご、ごめ…」

    「……はな… して…」

    
「た、橘さ…ん!?ちょっ……どうし……」




         何処へ…この瞳を泳がせれば、呼吸が出来るのかさえ…  分からなかった…。


      酷く綺麗な暗闇の月と、目の前の昼間の空が…混同して、
      何処か存在しない世界に永久的に放り込まれて殺されるのかと。

      それとももっと―――… 見たこともない、地獄へと…


      殺されるんだ、と……


          病か、それとも もっと恐ろしい…  何、か…    に……                               
 『 死 ネ 』



   
 「!!、ッいや……嫌ッ……」

 
   「橘さん、……橘さんッ!!」

    「嫌ぁあ!!!」




      更に強く肩を掴まれたのに気付いた。



         
  何 処 ニ モ 逃 ゲ ら れ ナ イ 



   
 「橘さ…!!」


      瞳から溢れ出てくる寂しい感情と恐怖への絶望。
      これは何?―――涙?なんで…何で流れるのだろう。  今頃になって…

      どうせならあの教室で泣けば良かったじゃないか。泣けるなら…!
      人前で泣くのだったら、こんな奴の前でなくて…もっと大勢の前で泣けばいい。
      悲劇のヒロインになれるのだったらそうやって見せつける武器として使えばいい!!


      こんな所で泣いて、 何の意味になるんだ…


           苦しい…  だけ  じゃない   か……        惨めなだけだ…!!!!



    
「橘さん、待っ―――」

   
 「る、な………見るな…ッ」


        強く肩を引きつけられ、必至に俺は顔を振った。

        嫌だ……泣きたくない……  軽蔑されるだけだ…
        俺に向けられる目はいつも、哀れだな、関わるまい、と去ってゆく目。

        だったら始めから俺の事なんか見るな―――!!
        見るな……見るな!!!見ないで!!!!



             お願いだから、蔑んだ目で、見ないで――――――…


             嫌だ―――!!!

              


    
 「っ…!」


       予震は無かった。
       スタートダッシュのピストルが鳴ったかのように…… いきなり、だった……

       まただ。 苦しい……!!
       胸が、苦し… い   ……身体が、震える…
        
       助けて…   誰か、誰か、誰か…――――――!!!



      「…!?、…どうしたの?」




              柏滝、
                                                     
 助けて   助けて    助けて… !

     

     
 「橘さん!どうしたの…?大丈夫か!?」



        異常だと察知した柏滝は、俺の両肩を持って、目線を合わせるように背を屈める。
        脚に力の入らなくなった俺はそのまま重力に任せて冷たい灰の廊下にへたれこんでいった…
        男はその手を離さない。蹲る俺と共に屈み、懸命に…俺を揺する。

        必死に、橘という名字を、叫んでる…… 
        柏滝の手は、やはり羨ましい程に大きくて…暖かかった… 兄さんみたいだ…。 


        ……兄さん? 
                                  
違う…!


     
 「ゃだ……っ、ぃゃだ、…嫌だ…」

     
 「、橘さ、」

     
           イヤだ。違う……コイツは兄さんじゃない……!
           どうせ消えてしまう。俺に傷付けられて消えてしまう…!
           お願いだから、もう……俺に関わらないで、―――…関わらないで…



     
 「俺に関わらないで…!嫌なんだよ、お前を傷けるのが…!!」

     
 「………え…?」
  
      「お願いだから、もう俺とは関わらないで!!!お願いだから…!!!」

     
 「っ…だから、それは君だけの言い分だろ!?俺の話は聞いてくれないのか!?」

      「関わるな!!!」

      
「ッ…」


        目が、開いた。
        頬に雫が飛んで、口の中に塩水が入ったのも分かる。
        錯乱しているのだと思いながらも、自分は冷静なつもりだ…


        記憶に鮮明に戻るから。

        たった1つの恐怖が
 
                                                                                    
    
 「俺と関わっていれば、また今日みたいな事が 毎日のように起こるんだ…!!!」
 

        教室でいつも1人ぼっちの私に、話し掛けてくる物好きの少女。
        友達になろうと言って手を引いてきて、にこりと笑ったのを憶えている…

        私がそれに応えて手を伸ばし、笑い返した瞬間から…
        少女は教室中の“裏切り者”になる。


        話し掛けてはいけない、省く約束である“橘珱”と 友達になったから
        今日からお前は裏切り者。お前も橘珱と一緒で今日から完全無視。


        教室のリーダー格の女が言った言葉を覚えている。
        いじめに耐えかね登校拒否になり、その少女が親の意向で転校したのが最後の記憶。


        その時の最後の彼女の視線を…  私は知っている。

        あの 怨みと 哀しみと、 …お前のせいで… と書かれたあの視線を…



        私は この身に、常に受けている…




              私はあの子の人生を壊した。

              私は凶器と同じだ。


              私は私に近寄った者を傷付けてしまう運命なんだ。


 

              だからね、…私の傍には近寄らない方がいいんだよ……




              初めから……  初めから、誰も―――…




     
 「…俺の傍に、近寄るな…!!」
     


        俺は泣いていた。
        いつも1人で、ベッドの上で流しているような、涙で…泣いていた……

        本心では、…泣いてないんだよ。
        泣きたいだなんて1度も、思ったことは…無いんだ…


         それを、柏滝が哀れに見つめている

         そして蔑まれ去られるのだろう… そう思うと…      この先には、逃避も拒絶も意味を成さない



         もう、何があるのかも分からない……





          胸が苦しい。身体が震える。 涙は、止まらない。

          あとは、もう、真っ白だ。


          自分が何を言っているのか、次に何を言うのか、
          今何をしているのかも次に何をするのかも… もう分からなかった。



          俺は生きている?…それすら分からない。




       
 「橘さ……―――、…珱、落ち着いてくれ…!」

        「…っ…」


        「お願いだ、落ち着いて、…珱、」

    

            柏滝が、今度は…懸命に俺の名を呼んでいた。…「珱」、と。 
            その声はまるで…粘着力のあるような泉の中に落ちるように、
            ゆっくりと静かに頭の中に響く。……「珱」、と。

            その名前で呼ばれたのは…兄さんがアメリカに行ってしまって以来だ…。
            珱。……ああ、懐かしいな。…自分の名前なのに。


    
   「大丈夫、珱…」


           柏滝は尚、俺の両肩を持って、共に膝をついて…
           俺を支え続けていてくれた。何故なのかも分からない。
           ―――ただいつか、冷たい視線が俺を刺すとだけ予感して、
           もうやめて欲しいと…心からそう願うことしかできない。

 
     
  「…お願いだから、関わらないで…なんで、…何で俺に…何で……」



           勝手に、身体が喋っている…
           苦しいよ。…身体の震えと、涙が止まらない。



                 助けて……


                                                            
 なんで?







      
  「ッ……好きだからだ…!」






              ふわ、と、暖かい腕が……震える背中を包んできた…





       
 「―――…」





          震えを宥めるように…肩と背に手を当てて、「よしよし」と、さすってくれている…
          兄さんとは、少し違う。でも―――……温かい…。




     
  「君が好きだからだ……!!」




                    なに ?       …  キミガ    スキ …?




     
 「…………え…?」


  
         彼が何を言っているのか…正直、言葉の意味が分からなかった…

         やがて柏滝の腕は、俺のことを…きつく、抱いてくる。
         その瞬間に、不思議なくらいに胸の痛みが…すぅ、と、ひいた…。

         自分でも、びっくりした…。 真っ白だった意識がだんだんと戻ってくる。
         胸の苦しみも痛みも…柏滝に触れられている背中から…抜けていくようで…。

         しっかりしてて頼れる肩。人1人を包み込める長い腕、広くて大きな胸。
         俺がゆっくり胸に顔をうずめても…まだ余るくらいに、ある。

         すごく、安心する。
         すごく、久しぶりに…落ち着ける…
       


                   
 兄さん、   兄さん、兄さん……



  
 「………な…んて、?」



       しっかりと戻った意識で   もう1度聞かせて欲しいと思った。
       幻聴だ、と言われた方が正しい気さえした。
       そう言われるのを期待しようとさえ、思った……


  
   
 「君が好きだ。…ずっと、好きだったんだ…」




        キミガ   スキ  …?


        それは―――……橘珱、という、人間に対して…か…?
        嘘だ。そんな訳が無い。有り得ない。何を企んでいるんだ。
        柏滝の胸に顔を寄せたまま… 何故俺はそんなことを思ったのだろう。

        全力で拒否をする準備をしながら、身動き一つも取れずに… 呼吸だけ、繰り返す。



     
 「信じてくれなくてもいい…むしろ…信じられないだろうけど…」



            それでも…      嘘じゃないと、柏滝が言うのを…  私は頭の何処かで期待している―――……



      
  「俺、推薦入試の時初めて君のこと見て…一目惚れ、したんだ…」

        「かわいいな。って…。綺麗だな、って…、ずっと、思ってた!」

        「それで、入学してから…クラスが同じだって分かって…」

        「居ても立っても居られなくなったよ。…君のこと、ずっと見てたんだ…」

           

        ずっと…入学する前からだと? 入学式の時も…? クラスの気怠い自己紹介の時も?
        ヤンキー達に話しかけられている時も? 蹴られた机がお前の方まで飛んだ時も?

        俺が、ナイフを振り上げてた時でさえも―――?



      
 「嘘じゃない。 ずっと、好きだったんだ…!!!」

       
「―――…」



        “嘘じゃない”…。



        グルン、と…脳味噌の中で世界が揺らいで、俺の中身は一回転でもしたかの様だった。
        分からない。何で?…どうして柏滝みたいな奴が…俺なんかのことを、見てくれて…いた?

        …普通俺の様な危険人物、「怖い」「関わりたくない」って思うだろが…。
        むしろ俺はそう思われて1人になりたくて、優しい奴らに関わらなくて済む様に…こうなったんだから。
        それなのに…ねぇ、どうして貴男は…

       
    
 「ごめん、泣かせるつもりじゃ無かったんだ、本当にごめん、でも……」

    
 「―――……」

     「……君が、好きだ…」




          そう、言ってくれるの?     

           
          周りが真っ白だ。イヤ、俺の頭の中が…真っ白なんだ。
          何も考えたくない。何も想いたくない。ただ、…この人の胸の中にいられれば。
          今はもう、何がどうなっても、構わないよ…

          やっぱり、今日の俺はおかしい。
          いや、もしかしたら違うかも。おかしいのは、いつもの俺か…?
          そして今日の俺が…もしかして、「本当の、俺」?


   
 「俺は……君が本当に何を求めているのか…分からないけど……でも…」

 
         俺の声が、聞こえる?
         …いつも何かに向かって泣いてるのが……分かる…?


  
 「今日思ったんだ。…君はいつか1人で、何処かへ行ってしまう。…そんな風に見えた…それが嫌なんだ…!」

   
「――――――…」

   
         こんな夜に。ただのアパートの通路で。
         ドアも開けっ放しで、…座ったままで、男に抱かれて…動けないでいる。

         どうかしている。 でも、どうにも出来ない―――…
         どうしてお前が、俺の事なんかを―――……  どうして……


 
   「……大丈夫…か?……珱?」

    
「柏、滝…」

    「―――うん」

 

          あったかい。柏滝の胸の中は、まるで別世界だな。なんて。
          いや、違わない……別世界なんだ。別の世界の、人間なんだ……


    
 「今日は…悪かった…」


             あぁ、でも、…それでも、ずっとこうしていられたら…
             時が止まれば…なんて。映画みたいな事を思って心で薄笑いを浮かべた。
             馬鹿みたいだ。こんなの、…こんなの……俺には許されてない……。
 

    
 「君のせいじゃない…。悪いのは、」

     「俺だよ…」



         俺は少し、柏滝から離れた。 でも柏滝の手は…まだ、俺の背中に当たってる。
         いつでも俺を抱き直してくれそうな気さえした…


     
 「でもお前の言い分は聞いた。…もう、いいだろう…?」

   
         俯いて俺がそう言い返し顔を上げると、…彼は少し瞼を強ばらせて黙った…。
         さっきのがお前の言いたい事であるのならば、俺はもうそれを受けた。
         そして受け取る気も何か気持ちを返す事も無い。

         永遠に無いよ。
         選ぶ事なんて、始めから許されてないから―――



    
 「…俺とお前は、……違う生き物だ」

    
 「―――…同じ人間だって、言っ…」

     「違うよ」




           同じ人間だ。 でも  ―――…世界は違うよ…



     
 「何が…!」

      
「お前は優しいから、……怪我するの、見たくないんだよ」



          皆消えてゆく
          俺と関わった人は、皆消えてゆく……


             柏滝みたいな優しい人は―――…    消えて欲しく無いと、思うんだよ…




    
  「帰れ……」

     
 「え、」

      「帰れ!!」




           彼の胸の中でそう叫んで…
           俺は、―――柏滝の胸を、突き飛ばした……





      
 「帰って―――!!」

     
  「橘さ、」




          なんて自分勝手だろうか。 でも…勢い良く、玄関へと戻った。 ドアを閉めて、鍵も掛ける……




    
  「橘さ…! っ、珱!!!」




           ドアの向こうで、柏滝が、…叫んでた。
           もう夜なんだぞ…静かに、しろよ……
           ほら、言っただろ。両親も…仕事から帰って…くるかも…しれない、だろ…



           ドアに背をつけたまま、俺は玄関にへたれる…

           俺は なんて嫌な奴なんだろう…。



           誰か助けて、なんて心では言ってるクセに…
           結局は誰にも頼れない。優しい人にさえ、素直にならない―――




      
 「うっ……う……」




            また、涙が溢れ出した…


            膝に顔を付けて、必死に声を殺す。
            ドアの後ろでは、…、まだ、柏滝の影があるような気がした―――…










                    いつまでも。      ……いつまでも。