Want Love 3
〜カシワダキ ダイチ〜





全てはこの日、始まった



いつもと変わらない

気怠い、くだらない、空気の中で









…俺の人生は、始まったんだ
















    目が覚めたのは、雨の音のせい。
    心地の良い静かな、窓を打ち付ける鼓動。
    夢を壊さない様に優しい目覚ましだった。…でも生憎、夢の内容は憶えてない。
    窓を見やると昨日程では無いが…まだ空は泣いていた。

    もう俺は泣き止んだのに。


    ポツポツと窓を打ち付ける雫を見て、
    ああ…洗濯物乾かねェなぁ、とかそんな事を思った。
    時計を見てから、学校めんどくせえな…とも思う。
    けれども行かなければ行かないで、家に電話がかかってきてまた担任共に怒鳴られるだけ。
    全てが「面倒くさい」に辿り着く方程式の鎖。

    …行けばいいんだろう?行けば。
    着ていたロングTシャツを脱ぎ、下着姿のままで部屋を歩いた。
    少しまだ水気を纏っていて重いスカートを履く。
    …何だか妙にウエストが緩い…また痩せたか?ちゃんと食わねば。
    冷蔵庫からヨーグルトを取り出して胃に流すように呑み込んだ。


  
     少し大きめの傘を差しながらダラダラと歩くと、靴下は水を吸い、
     ローファーは直ぐにスケート靴の如く滑る履き物に変わる。
     足元の不快さにイライラしながら、一般生徒とほぼ同じ時刻に教室に入った。

     外の空気と比べて教室の中は二酸化炭素のせいかのか、
     妙にムワッとしていて… 女子達の香水の香りも混じり嫌な臭いがした。
     其れが呼吸をする度に自分の肺に入ると思うと胸焼けがしてくる。

     そしてそのまとわりつく様な苛立ちは更に増幅した。
     …今日もさっそくギャル2人とデブら4人が俺の方を見ていた。
     俺が早くから教室にいるってのがそんなに楽しいか。
     ―――本当ならHRまで屋上にいたいんだけど。…雨の中屋上には居れないし。

     俺が席に着くや否や直線を放つかの様こちらに近付いてきた。
     単細胞生物。何なんだか…本当に、暇な奴ら。

     
  
 「橘さぁん」


      全く愛らしくないギャルの猫撫で声。
      こんな猫が道路の段ボールに置き去られていても、
      なかなか拾ってくれる様なヒーローはいないだろうと思う。…俺に言われたくないか。
      机の下で足を組んでから、俺は声の方向に目だけを向けた。


  
 「昨日もお仕事御苦労様ですぅー」

   「幾らで買って貰ってるんですかぁー?」


     ギャル共のその台詞に、ひゃはは、と、遠くからデブが声を裏返して笑った。
     一心同体、このギャルが俺に話し掛けたらアンタもソレに参加するのが定義なんですか。

     昨日もお仕事ご苦労様、だと? ―――ああ。…遠回しにどうも。
     昨日は5時間目でフケて、そのまま何処にも寄らずに家へ帰った。
     それだけで援交扱いですか…



  
 「週何日でラブホ通いですかー?」


     ふざけんじゃねェよ。そんな捏造ネタで盛り上がって楽しいか。
     …それとも何、そんな大声でそんな話をして。
     俺をそういうキャラに仕立て上げて、教室からどんどん孤立させて、それでどうしたいの。
     ―――最終的に何がしたいの。

      
  
 「いくらでヤッてんの?橘さ〜ん」

 
  「ヤリマンで有名の橘さんだからねェ」

  

    朝の教室にそんな言葉が飛び交って、嫌な顔をしない優等生はいない…。
    逆に面白がっている男共の目線が、俺の短いスカートの方へ向いて不快さは最高潮に達した。

    誰がヤリマン―――。俺は目を瞑った。
    くだらなすぎて、耳はともかく目で見てたく無い…
    ついでに言っておくが俺はこんなんでも処女。…男となんて寝たくない。
    そんな汚らしい行為死んでも御免、金に困ってもそれだけは絶対にしないだろう…。


    
 「今度1万で俺もやってよー?タマってんだぁ〜」

    
 「マジでぇー!?あっはは!!」

 
    汚い。汚い。汚い。…言葉も、態度も、お前達という存在も。 汚すぎる。
    消えてしまえ、消滅しろ、死ね、 死ね、 死ね死ね死ね…!!!!


 
  「…アンタ、品性って言葉知ってる…?」

  
 「品性ぇ?―――あはっ!!ちょっとぉー、聞いた?今の」

  
 「あれぇー?身体売ってる人に言われても説得力ねェなぁー」

   「…どこに証拠があるんだよ」

  
 「目撃者がいますよぉーそこらじゅうにぃ〜」


     だったら写真でも見せろ。
     そう言ってやりたいが、それで合成写真だとか作られても面倒だ。
     俺は「馬鹿馬鹿しい」と呟いて足を組み直す。顔を俯けさせ、鼻で呼吸をした。

     叫んでしまいそうだ。 死ねと。 殺してやる、と。 …手を出してしまいそうだ……


     だがそれとほぼ同時にギャルも男達も大声で笑い出し、
     まるで耳から悪魔か魔物か、それとも死神かが…侵入してくるかのように。
 
     ―――俺の意識を壊そうとしている…


     口で勝っただけでそこまで幸せか。  …―――死ねば良い。死ね…  死ね…!!!



   
「しかしよぉー、お前みてぇな女でもオヤジなら買うんだな」

   「ホントだぜ」

   「那美ちゃんみてぇに可愛ければ分かるけどなぁ?」

 
  「えぇー工藤ォ〜?アイツそんな可愛い〜?」



     ギャルは男の言葉にさえ愚言を叩き付ける。
     あんなのただ化粧が上手いだけの顔だよ、と言いながら笑った。
     じゃあアンタは化粧さえもが下手な顔。それで納得?

      可愛いから何なんだ、と思う。
      可愛さも可憐さも女らしさも要らない、俺が欲しいものは1つも無い。
      俺は女になりたくてなったワケじゃねえし、できれば男が良かったと思うくらいだった。

      それに―――…生まれたくて生まれてきたわけでもねぇんだ。
      誰かに望まれて生まれたわけでもねぇんだよ……



               
 死 ね ―――――― 




 
   「っ!!」



      古い記憶が―――… 突如、俺の神経を刺激した。



   
 「――…ぁ、」

    

     誰にも聞こえぬほど小さな声で、俺は喘いだ。
     急に喉元が狭まった気さえして…右手が胸まで上ってくる。

     嫌…   嫌…、嫌…!!!
     出てくるな、やめろ… 嫌だ、来るな…  来るな、来るな!!!!


  
 「   〜!、 」

  
 「     !   、   、    ! 」



      ギャルと… 男達の口が、恐らくきっとまだ… 俺に向かって何かを言っている。
      確かに音声らしき物は届いているのだけれど、何を言われているのかが全く聞き取れなかった。

      否…言葉の内容がどんなモノだろうと、別に構わない。
      慣れた。――――――ただ、コレだけは慣れない。
      


       あ の 記 憶 … 


                                               
 死 ネ





            …ろされる…  殺される、殺される…!!   殺される…   殺される、…!!








                             
殺される前に、  殺せ―――



 




      ――― 急に、周りが見えなくなった。
      まただ……俺の悪い、癖だ……       

      キレると何するか分からなくなる。 記憶が飛ぶ。
      …意識が、なくなる……


      自分の身体なのに…何が何だか分からなくなる。

      何処までが常識なのか判らなくなる。



      敵意のある人間に「死ね」と思うのは人間として普通だろうか。
      自分をあまりにも愛せなくて手首に刃を当てるのは正常だろうか。
      目の前の奴を殺してしまえば全て済むのにと思うのは普通だろうか。

      全て壊れてしまえば楽になれるのに―――  それは、正常だろうか……



   

                                                   
 それは 誰かに助けて欲しいの?
                          



                誰が!!

 
 




   俺は、スカートの下に手を伸ばした。
   そこに、何があるかって?


   ―――俺のたったヒトリの相棒。          ナイフ。






                                    殺してやる―――……!!








    
「いい加減にしろよ!!」


        
 「――――――…!」


   
 
     教室に響く音が、心地の良い、優しい… 雨だけになった…

     笑い声が、引いた。




       居心地の悪い温度の教室は…静かになった。
       だが昨日と違うのは、連中の目線が俺に向いてない事。

       クラスの奴らの目は、全て――― その叫び声に、集まった…。




  
 「……いい加減に、しろ」



       俺の隣の席の委員長………だ…。



      空白に近くなった目の前の景色に色が戻り、
      …俺は隣の席の男を見つめていた。

      …真面目な高校生に相応しいショートの髪に、縁の無い眼鏡と、
      第1ボタンまでしっかりと留めたYシャツにネクタイ。
      例えば「正義」という言葉が具現化されたら、きっとこんな姿をしているのだろう…

      突然、その無関係の優等生が自分の机を叩くなり…立ち上がる…。
      さすがに俺も驚いた。スカートの下の太股に手を当てたまま、止まってしまう。

 
      …今こいつ、なんて言った?   いい加減に…しろ?

 

   
 「えっ?何ー柏滝ィ?テメェ橘の味方すんの?ん?」

    「さ〜すが委員長。弱いモノの味方だよね〜」



       ギャル達が、圧倒なのか嫌悪なのか、立ち上がり叫んだ委員長から引いていると
       即座に馬鹿男4人組の方が前へ出てきた。

       が、委員長を茶化す為に発された言葉だったが、何故か俺の方が馬鹿にされている。
       …弱いだと?俺が?  すぐさまその男を殴ってやろうと思った。
        
       だが、再び隣の男…委員長が言葉を繋いだせいで俺の行動をも遮る。
       …つぅか…何なのこいつ?何のつもり?邪魔だ。


  
  「女子相手にそんなことを言うな…聞いていてこっちまで気分が悪くなる」

   
 「何がですか〜?「真実」を言ってるまでじゃねェかよ」

  
  「そーだぜェ」
 
    「それとも何、柏滝。もしかしてお前、橘みてーな女が好みなのかなっ?」



      ギャハハ!、とまた汚い笑い声が教室の天井に向かって散る。
      …委員長は、ぐっ、と、悔しそうに相手を睨んだまま動かなくなった。

      馬鹿が。余計な事しやがって。 

      この4人は、相手が自分達の仲間でなければ誰でもいいのか。
      否、違う。結果的に俺を馬鹿に出来ればいいんだろう。
      今度は…「俺の味方サマ」らしい、委員長に絡みだした。

      馬鹿な男だ。面倒事が増えただけじゃねェか。
      …とりあえず冷静にしてくれた事だけ、感謝しておくか…
      俺は、スカートの下から手を引いた。…こんな所でナイフを出していたらどうなっていたか。


      退学処分だったかもね。 それでも良いんだけれど。
      俺は右足を軽く引いてから、つい先程まで自分が座っていた椅子を思いっきり蹴り飛ばした。



         ガンッ!!!!



  
 「ッ!!」

   
「!、」


  
 「…テメェら、俺に用があったんだろ?……関係ねェ奴に手ェ出してんなよ」



        ―――…ん、? …何か台詞間違えたかな。
        これじゃ俺が委員長を護っているように聞こえる。
        …否、でもコレで良い。勝手に割り込んできて怪我されて…

        結局また最後に恨まれるのは俺になる。


        だから遠ざけておいて間違えでは無い…



    
 「聞いてんのかよ?」


       
       雨の湿気で濡れている上履きがキュッ…と、音を立てて俺の足音を演出する。
       …2歩、脂っこい馬鹿なヤンキーに近付いて威嚇してやると、しん、と、周りの空気が冷えたのが分かった。

       俺の血と、同じだ。

 
      
     ガラッ…と、ゆっくり、教室のドアが開く。
     全員席に着けー、と、場に似合わぬ何も知らない先公が…教室に入ってきた。
     静まりかえっていた教室の糸が切れたように、フッと…緊迫感が途絶える。
     先公は1度俺の方を見たが、周りにいた奴らが被って見えなかったらしい。

     目撃者も、被害者も加害者も俺も…
     何もなかったかのように姿勢を戻し、席に着いてゆく…。
     そしてこの空気の温度差に気付かねェ先公も先公だと…心底思った。
     口ばかりで行動に移す事だけはしない。これだから何も進展しねぇ。

     誰も変わらねぇ。…俺も、何も。

     俺瞼を伏せ視線を逸らすと、そいつは俺の足下に唾を吐いて逃げた。  …負け犬が。

          




       もう帰ろう。

       来たばかりだというのに。でもHRも終わったし欠席にはされねェんだから。
       何時までもこの空気の中を泳いでいられる自信がなかった。
       今すぐに酸欠になり溺れ死んでもおかしくない…
       逆に、誰かを引きずり込み、全てを壊してしまう様な気さえした。

       何処から血が溢れ出してもおかしくない程、体中に硝子の破片が刺さった感覚。


       カバンを乱暴に背負い教室の入り口まで素早く歩く。
       チラリチラリと、馬鹿4人とギャル2人が見ている。
       そして入り口際席の大人しい女…勿論名前なんて知らねェけど…
       そいつが俺を見送りながら、近くにいた友達らしい女に呟いてた。


    
 「橘さんてさぁ…本当に援交してるのかな」

    
 「あー…うん、…てゆーかあそこまで男子に言われたらあたし泣くよ」

     「普通ねー」

    
 「だよねー…本当だから言われても平気なんじゃん?」

      
       好き勝手言ってくれるじゃない。…全部聞こえてんだよ、馬鹿が。
       …オカシくて結構。 この際、ヤリマンでも結構。
       俺はあんた達と違って…泣いたって同情してくれる奴なんざいないんだ。
       だからあの程度言われたくらいじゃ泣かないんだよ。泣けないんだよ。
       人前でなんて泣けないんだ。―――泣いたって、惨めなだけなんだよ…。

       出来るものなら俺は、男に生まれたかった。
       腕力も、脚力も、能力も…全てにおいて女は男に劣っている。
       乱暴な口調をしていれば「女らしくない」と言われるし。
       ヤリマンという罵り方も、女へだけの一方的な暴言だ。

       こんな絶対的な不利があるかよ。
 
       人間は平等じゃない。
       人間は何もかも違うじゃねェか。どうして俺だけ……   ヒトリなんだろう…。


       廊下さえもが雨に濡れていて、上履きを擦らせると再びキュッと音を立てる。
       右足から階段を踏んで、滑らぬようにと下ろうとした瞬間だった…。

       …去ってきた教室の方からガラッ、という音が聞こえた。
       教室のドアの音。ああ、先公か…?―――引き留められたら面倒だ。
       俺はチッ、と舌打ちをして、滑るのも気にせず階段を駆け下りた。

       追われる草食動物のように。
       迫ってくる足音に、耳が痛みを訴える―――…



    
 「あのっ、橘さん!」

  
          ――――――…   ……先公じゃ、無い?


    
 「橘さ…!!」



       だが誰だか分からない。男の声だったけれど。
       繰り返し名を呼ばれて無性に嫌気が走った。
       うるせぇんだよ…!もう、その名前呼ぶんじゃねえよ!!
       硝子の破片の下で、叫んでいた。

       振り返るのも嫌だ、結局逃げるしか俺には道が無い…


  
 「橘さん!!」


       だがそのせいで男の声は更に声は大きくなる。
       …呼ぶなっつってんだろ!誰だよ!!!

       俺は半分涙目になりかけて、途中まで下った階段の踊り場で上をギッ、と睨み上げた。
       うるせぇ!と大声で怒鳴り返すつもりだったのだと思う。―――が、


  「………ぁ…」


      …階段の手摺りに掴まりこちらを見ている相手が、……相手なだけに。
      思わず間抜けな声を出してしまった。俺を見つめていたのは、先公でも不良共でもなくて…


      ……さっきの…邪魔者委員長…。


      もう1度言うが…そいつはいかにも真面目君で、俺とは正反対の男。
      はっきり言って俺に話しかける度胸だって無さそうなくらいなのに。
      はぁ、はぁ、と…僅かに軽く息を切らせていた。走って俺を追ってきた?
      …何故?

      …自分の中で答えを出そうとしてみたが、思いつくのはせいぜい…
      テメェも先公みてェに俺に説教か?、という事くらい。畜生が…と思った。



   
 「あの、…さ、っきは、大したこと言えなくて…ごめんな」

   
 「―――…え?」


    
      だが次に発せられた言葉を聞いて…思わず俺は、
      …眉間に入っていた力を抜き、階段の下からソイツをじっと見上げた…

      なに?  ごめん、な … ?


   
 「…本当に…ゴメン」



      何言ってんだ… この男……
      与えられた事のない言葉を掛けられて、俺は目尻に力が入った。
      何に対して謝罪を受けているのかが分からない。
      ―――…何故この男は… 俺に、そんな表情を向けているんだ…?

      …俺は改めて、委員長をしっかりと見つめ直した。
      黒い髪…すらっとした身長。180pくらいかな…真面目な制服の着方がよく似合ってる。
      顔立ちは…キリッ、としている様でもすごく優しい。…ああ、そう…どことなく、兄に似ているんだ…。
      そして―――眼鏡、その奥にある…空色の瞳。綺麗な空色…、快晴の色…。


      綺麗…
      俺の紅色とは大違い…


  
 「ゴメン…」

 
  「―――…は?」



       もう1度理解不能の言葉を言われて、俺は冷静と我を取り戻す。
       だから…何の事なのか。……さっき?さっきって…何?
       足が硬直し止まってしまった。そ俺はいつの顔を見たまま動けなくなっている…。
       それは呪縛か、拘束か、と言われたら… 多分、魔法…の方が近い。


 
  「本当に、…」

  
 「…何が…」



       さっきって…でもどう考えても……さっきの、喧嘩のことだよな?
       戻った頭脳で考えてみて、当然の答えだった。だが理解は出来ない。
       ごめんと言われる筋合いが無い。別にこの男には関係の無い話なのだから…。


 
  「何がって…あの…助けたかったんだけど…返って俺、余計な…」


       だが続けて紡がれた言葉に、悪意の無い苛立ちを知る。
       助ける?…俺を?ふざけんな。テメェの助けなんかいらねェよ…
       誰かに助けられるほど俺は墜ちてねぇし、女だからと馬鹿にされる程弱くない。
       俺は再び眉間に力を入れしわを寄せ、ソイツを睨み上げた。


  
 「…いらねぇよ」

  
 「ごめん!」


     …また力強く謝罪される。…何故謝ってくるんだ、こいつは…。
     助けてくれと言った憶えも無いのに勝手に顔突っ込んできて。
     …挙げ句奴等に罵られて、不条理な思いをしたのはお前の方だろう。
     むしろ俺が加害者だ。

     …だが俺が謝らねばならない、とも思わなかった。

     俺はお前に 助けなんか求めてない―――…
     そしてこれからも、求めなんかしない。


        どうせお前だって、俺を惨めな女と思って、 ヒーロー気取りで口を割ったんだろう?

        いつか俺のせいで怪我をして、最後には俺を恨んで消えるクセに――――――…



     そう思ったら関わるのが異常に嫌になった。
     だが何も言わずに背を向けると、そいつはまた俺を呼び止めてくる…。
     もちろん、「橘さん」と、名字を呼んで…。また、硝子の破片が何処かに食い込む……。


  
 「………」


     無言で、振り返りもせずに足だけを止める。
     早く帰らせろよ…授業が始まるじゃねぇか。優等生君には困るんじゃねェの?
     俺は相手を威嚇する時に使うような顔をしていた。―――が
     相手は喧嘩なんて知らないだろう、一般人。理解できるわけねェと思って…
     結局其の顔を階段の上に向けるような事はしなかった。ただ、足だけを止めて俯いている。


  「橘さんは…平気なのか?」

  
「………何が」

  「何がって…」



      そいつは、言いにくそうに…逆に俯きながら、言葉を探していた。
      …俺に言われたくなど無いだろうが、変な奴だ…。
      こーゆー普通の男子生徒っていうのと…初めて話した気がする。
      だからそう感じるだけなのか。こういう男はこーゆーモンなのだろうか。


 
 「あの、その…アイツらの―――」


      何なんだよ…呼び止めたなら早く言えよ…待っていてイライラする。
      先公に見つかったら面倒くさい、という気持ちもあったが、何よりも
      …何を言われるのかが分からないこの身の痛みが、1番怖かった。
      何が言いたい?やっぱり説教か。それとも存在が迷惑とでも言いたい?

      もう何でもイイ…。 早くしろよ…


      乱暴に担いでいた鞄を、肩に掛け直す。
      胸で膨れあがる苛立ちの雲と、何かに押し潰される不安を静めようと…
      髪の毛をかき上げ、視線を昇降口のガラス窓と打ち付ける雨に泳がせた。

    

        …例えば、今目の前にいるお前が… 俺の兄さんだったとする。
        そうしたら今俺は… 一体どうするだろうか。

        喜ぶかな。それとも泣くのかな。
        …どうして俺は生まれたの?と…聞くのかな。

        さっきの真っ白になったあの思考が酷く怖かった。
        正常というボーダーラインが一体何処なのかも、判らなくなって。

        多分目の前の誰かを殺そうとしたし、殺すことをただの衝動としか捕らえていなくて、
        その先の事なんてどうでも良いと…思っていた…。


        俺は何?

        そしてあの古い記憶は―――…  いつまで俺を、縛るの…



    
 「お前…」

    
 「えっ?あ、な…何?」


        男の言葉を待っているのを忘れた。
        …俺はようやく顔を上げ、もう1度委員長様の方をきちんと向く。


    
 「何で、俺を助けようとしたの。…正義の味方気取り?迷惑なんだけど」


       …逆に降りかかった俺の質問に、そいつはポカン、と口を開けた。
       皮肉のつもりの言葉だったのだが、あまり気にしなかったらしい。
       逆にカッと表情に力が入り、真正面から言い返された。
 

  
  「何で、って…イヤ、だって…失礼だろ!?あいつらの言ってること!!」
     
   
 「何が」

    「だっ、だって…あいつら、橘さんの事、可愛くないみたいな言い方して…」

    
「…真実だろ」
  
    「真実!?」



   そいつは更に声のボリュームを上げる。何なんだ?力説ポーズだ。
   

    
 「本当にそう思ってるのか!?」

    
 「―――?」
 

      そう思ってるってゆーか…別に興味ねェんだよそんな事…。
      つーか何で熱くなってんだ。
      馬鹿に馬鹿な質問をしたかも知れない。皮肉も通用しねェし。
      
      だが次の言葉で…俺も熱くなった。   …別の意味で。

 


 
  「橘さんは美人じゃないか…!!顔は綺麗だし、スタイルも良いし、か、…可愛いよ!!」


 
        ―――……え?



  
 「あいつ等の方がおかしいだろ…!絶対に俺には、橘さんが可愛くないなんて思えない!!」


 
  「――――――…」

   


         一瞬



      また、頭の中が真っ白になった。でも、違う意味で、だ。
      今こいつ、なんて言った?
 
      俺が   可愛い  ?



 
 「………ッ…!」



      頭の中でガァン、と、鐘が鳴らされたように痛みと…言葉がリピートする。
      そして一瞬にして、頭の奥から頬に掛けてカッと… 体内の温度が上がったのを感じた。
      何を言われたのか理解した、その刹那に。


  
 「―――…… へ、……変態かお前…!」

  
 「っ、え!?あ!あっイヤ―――!!あの…ごっ、ごめ…つ、つい……いや、違…ッ」
  

     そこまで言っておいて、逆に慌てふためき恥ずかしそうに口元を押さえる男。
     …何故お前が赤くなる。ふざけんな…恥ずかしいのはこっちだ。
     何で男にそんな事言われなきゃなんねェんだ。
     しかもよりによって、不良の俺と正反対の、優等生委員長に…!


  
 「あ、えーっと…」

  
 「……」


     とてつもなく気まずい沈黙。どんな相手にも口でだけは負けたことねェのに…
     何も言えなくなるなんて初めてだった。髪を掻き上げ、どうしたら良いか混乱してしまう。
     …恐るべし、学級委員長…。


 
 「た、橘さん、か…帰る…の…?」
    

     そうだ…。そうだよ。
     もう目も見れずに、俺はフイと顔を昇降口の方へ向けて目線を遠くした。
     随分わざとらしいと分かり切っている演技は、男の目にはどう映ったか…。


 
 「…ああ」

  「そ、そっか、あ、じゃあ、…雨、降ってるし……気を付けて」




     そいつはそれだけ言い、さっと、俺に背を向けて消えようとする…。
     俺はそれまで何かに縛られていたかのように、身体の力が抜けていくのが分かった。
     ああ…やっと解放された…。教室内の空気とはまた別物の、貼り付けられた様な空間だった。
     もう…駄目だ。早く帰ろう…。



 「―――あ、た、…橘さん、」

 「………、」



    が、また一歩踏み出した瞬間に直ぐさま再度呼び止められる。
    湿っている廊下で上履きが滑り、転びそうになった。
    …勿論右手で直ぐに手摺りに助けを求め、微塵もそんな風には見せない。


 「………何」

 「えっと……あ…いや…」

 「………」

 「ごめん、何でも…。……気を付けて」

 「…………」



    明らかに何かあるだろうが。
    俺以上に演技が下手なのがモロバレだった… 変な男…。
    だが何でもないと言うなら何でもないで良い。

    俺には関係のない男であれば良いんだ。




      そうだったはずなのに



     なのに。
     何故、俺は彼に   出会ってしまったのだろう…








     ねぇ、



     何度後悔したか、 分からないよ……                            
 何度感謝したか、 分からないよ……







    「なぁ!」





 

         何を思ったんだろう。 今度は俺がそいつを呼び止めた…。

         驚き8割方、不思議そうに振り返った男は…唇をへの字に曲げていた。
         黒の髪が、サラッ、と揺れる。―――…ようやく見れた、眼鏡の奥の空色が…



           酷く、眩しい…     見れなくなったのは、そのせいか…。




    
 「迷惑委員長。…お前の名前は?」




        男は一瞬驚いた後、嬉しそうな顔で答えてくれた。
        それが何だか、俺の心の何処か弱い部分を許してくれるような気がして…

        あいつの空色の目を見ていると…どこかに吸い込まれそうだった。
        どこ? 分からないけれど。

        




  
  「…柏滝、大地!」






          ただ 指先が、熱くなる感覚を知った―――……








           
 「柏滝、………覚えとく」

 








    家に帰ると、少し体が濡れていたのが気になったけど…そのまま横になってしまった。
    疲れた。…けど、心臓が…ヘン。







    ああ、吸い込まれる。    ――――――空色…









 
        甘い夢、に。