泣かない強さも、 泣けない弱さも、
お前は全てその人形の表情の下に隠していた



お前は其れをただの「不要」としか見なさず、
ずっと耐えて生きていた事さえも知らずに

ただ痛みに我慢するだけの事と思って生きていた





あまりにも綺麗な其の黒と紅は、
一体いつから… 溢れ出すことを忘れたのか





だが 感情さえをも失った あの時…

お前の頬を濡らしたのは、お前の涙じゃなかった








俺は、 もう泣けないその身体を 見ている事さえ出来なくて――――――     















【009:You can't never see only my peaceful pains】
















     あの優しさに縋りたいと思った私は―――   酷く愚か者だ…








「―――……」



ベッドは… 煙草臭かった。


自分の周りには煙管を吸う人間さえいなかった故、こんな匂いに耐性が有るはずも無い。
…この苦い香りがどうにも、自分の身体へ拒否反応を及ぼしているとしか思えなかった。

呼吸が上手くできないのはそのせい。
…頭が痛くなるのもそのせい、 そう思いたかった…
だけどそれは全てただの、一種の“逃げ”に他ならない。



殺される絶望と追われる恐怖から、足を縺らせながら逃げてきた。
自身の半身とも言える刀だけは大切に抱いて。

そして溺れ藻掻きながら逃げた挙げ句、辿り着いたのがアングラ。
薬まみれの男共に襲われて、蜂の男に救われ、部屋に匿われた…。
ヘヴンでは何処にいても360度全てを…境界線が張られている気がしていたせいか、
こんな地獄の中でもヘヴンに居る時よりは些か安全だと、感じていた…

そう、だからきっとアイツも、アングラに逃げよと…耳元で告げてくれたのだろう。



「―――……」



寒々しい…暗い部屋。海の底にいるような感覚。殺風景な地獄。
安全と云えど果たして辿り着いた場所が良かった悪かったかは… 分からない。

私はゆっくりと、自分の額に手を当てた。
先程まで狂いそうな程の痛みを伴っていたというのに。
…今はもう何ともない…


……おかしいな…


…額に触れられた瞬間… まるで採血でもされた様に痛みが引いた。
目に見える訳が無いのだが、其れは感覚的に私に教えていた。


あの男の手が―――、 痛みを取り払ってくれた。     不思議な感覚だった…



「………」



私はまだ… 同じそのベッドの上で横たわっている。
だがあの男が「部屋を空ける」と言い背を消して、
この薄暗い部屋のドアが閉まってから…もうどれくらい時間が経っただろうか。

相変わらず呼吸がし辛いのは、空気が重苦しいから。
…このベッドの煙草の香りのせいじゃない。
そしておまけに少し肌寒いのは、きっと太陽の光が無いせい。
アングラとは24時間ずっとこんな薄暗い世界なのだろうか…
こんな環境で生きている人間が存在するという事自体、異常だ。


頭痛がおさまっている事をもう1度確認しながら、ゆっくりと身体を横に向けた…。
…シーツは苦い煙草の匂いがして、とても馴染める様な物じゃない。
あの男がいつも使用しているのだと思うと其れは更に嫌悪感を交える。

…だが、柔らかで広さのあるベッドだった。体温が移り温かさもあった。

―――こんな清潔なシーツの上で休む事は一体いつぐらい振りなのだろう。
眠れた事さえ何十時間振りか…。 そう思って、手が、震えた。


……変な男だ…


「蜂」という存在も、そしてそのアングラの蜂を「アンダービー」と云う事も知っていたが、
…正直もっと狂った連中だと思っていた。…血の気の多い非道な奴らだと。

それが、あの様な… 温度のある感情を曝す様な人間だとは―――。
脳裏にぼんやりと黒髪の男の顔が蘇る。…人の顔を覚えるのが苦手で、早くもその映像は歪むのだが。
……だが私を助けたあの男は、紛れもなくアンダービー。其れもチームのリーダー。



  “…お前が話す気になるまで、御上には連絡を取らない”



此の背に触れた手が―――  酷く、温かく…
心の何処かで戒め張り詰めていた糸を、ゆっくりと解いてゆく感覚だった。

あれを何と表現したら良いだろうか。
“優しい”という言葉以外が思いつかない。
きっとそれは私に学が足りぬからとか、経験が足りぬからなどと…そういった理由では無く。


静かな、日溜まりと木漏れ日。
この薄暗い世界と海底のような空気に差す…  優しさ…



   一瞬、 「縋りたい」と―――  甘えた願いが 弱き心を過ぎった。



そして直ぐに我に返らねばと必死にその煩悩を振り払った。
―――何を、甘えなど… どの心が許したというのだ…
私にもう、生きる希望など与えないで。


私にもう、選択肢など与えないで。

温かさなど与えないで。




優しさなど―――   与えないで……





「……つッ、…!!」


痛い…

ズキッ!…と、突如、後頭部から米神に掛けて
…新しい頭痛が電気の様に走る。
思わず全身に力が入り、幼い子供が母の胸に泣き入るよう…縮こまった。
……煙草の香りのする枕に顔を押し付けて、必死に呼吸をする。
分かってる。…この頭痛だって、苦い香りのせいなどでは無い。


この痛みは…子供の頃からの持病のような物…
幾度も幾度も襲われてきた、私の中の病―――…


「―――ハァ、…ハァッ……う…」



政府の牢に放り込まれていた時だって―――… 何度此の痛みに襲われただろう…



痛い… 痛い、 苦しい……  寒い、     ――――… 殺される…





 
   「―――!お前、どうして…!!」

   「お逃げ下さい…!!」

    「ッ…え…?」

   「お早く…!!どうかお逃げ下さい、今の内です…!!!」

    「しかし、っ」

   「早く!!!気付かれるのも時間の問題です!!早く…!!!」



     「死んではなりません… 貴女に何の罪があるというのですか…! お逃げ下さい、 早く―――!!!」




          生き延びて下さい ―――――――――







「……ぅ、……ッ…」



痛い…痛い、  

…痛…い……  よ…   
苦し…い… 

 痛い―――……  


押し沈められたベッドの上で頭を抱えた。

―――さっき、強い力で此処へ押し付け倒されたのを思い出す…。
男の手は一瞬怖かった。 当然抵抗の術など無くて…何かされるかと思った。
だが普段の私なら絶対に負けない。
あんな事にもならない… あの男の手さえ払えたはずだった。

…なのに今は、呼吸さえもが自由に出来ない…
此がアンダーグラウンド… 下の世界…


やはり私が此処へ逃げてきたのは間違えだったのだろうか。
―――とても、生き残れると思えない…。


「…ハァッ……う、ぅっ…」



    痛い……  頭が、痛い……… 痛いよ… 


誰か―――… 




 ガチャン…


「!、―――ハァっ……」



部屋の入り口で、ドアノブが動いた音。
…男女の話す声がして、徐々にそれはこちらへ近付いてきた。
足音がまるで何かをカウントダウンする様に大きくなる。
静かな部屋がその音を際だてて耳に届けた。酷く痛い―――。


 誰だ    嫌だ――― 来るな… 来るな 来るな…  来るな…!!!!



「―――、ま 痛   か…?」

「……ハァッ……う…ぅ」

「…大  夫  、 こえ 、」




聞こえない。
声が、色々な方向に飛び散り共鳴し、何を言っているのか分からない―――…


頭が割れそうだ………  


此処は海底なのに…もっと深い場所へと、溺れてゆく感覚だった。
手を伸ばしているつもりでも、私の手はただ喉元を必死に掻きむしり、
呼吸をしようと愚かに泣いているだけ。



「 … き、  りし 、 イ、  」



  ―――だけど、 私は手を伸ばしているのに…  必死に手を伸ばしている… のに、



  
 ねぇ、    …私のこの手を…   どうして振り払うの…   どうして…     どう    て、  






 「       椿、  」







        “  ツ バ キ   ”                 





「…!」      




ツバキ、 …      

そう、    

 
ツバキ……              



私の…な、まえ      

 


もう1回、呼んで、          




私 の  …    

  
     





「椿!!」

「―――っ、ぁ、」

「大 夫か、オイ……浅く呼吸 ろ、  ゆっくり、」


「ッ、はぁ…!」




       …… 強く、   引き上げられた気がした。   海底から―――。



「―――っ、ぁ…ぅッ」



      呼吸が… 出来る……    



「………ァ、…ハァ……!」


なん、だ…… あの男、じゃない…か……
思わず私は必死に瞼を上げ、正面の顔を見つめた。
それは紛れもなく先程の男だ。
頭を抱えている私の様子を見、また頭痛がしているのを気付いている…
額が汗ばんだ。―――前髪が張り付いて、気持ちが悪い。



「頭痛…?にしては、…普通じゃないわね…」


今度は左の方から女の声。
ハッキリと鮮明に聞こえた。男より後方に微かにその存在を確認する。
…ああ…そうか…さっき彼が言っていた「女」の事か。私を診てくれる、という…。



「ああ…昨日からずっと症状が出ているんだ」

「―――…酷そうね」

「…拒否反応の延長だと思うんだが…」


違う…、此は私の中の病だ。
勘違いをしている。此がこのアングラの空気のせいだと。
そうだったらどんなに良いか…
空気程度でこの痛みから解放されるなら、どれだけ救われるか―――…

私は頭を抱えたまま、彼らに背を向けるようにしてベッドの上で縮こまった。
苦しみ喘ぐ姿など見られていたくない。―――消えて欲しいと思った。

痛みも、この男も 女も、  自分という存在さえ―――…



「うッ…うぅ………」

「しっかりしろ、…呼吸をゆっくり―――」





       
“ 『 やはり生かすべきではなかった   あの時本当に殺していれば―――…!! 』 ” 







死  ね  ば良  か っ    た                  







「ぅ、ぁああああッ!!」


「―――、」




今度は頭蓋骨を…、刀で貫かれたような痛みだった。
炎の茨に放り込まれた様に頭が熱く、氷に愛された様に指先が冷たい。

限界を保っていた亀裂が、全て引き裂かれる―――…




「椿…!」



ツ バ …キ 、      



「椿!」




       
  私の―――     名前だ……   …              

其れは、私の―――    名前、なんだ……  



  返して、返して……                     




返して――――――…!!!    
              




「ッ―し、て――…」


「…ゆっくり呼吸しろ、大丈夫だから、」




……男が後から、ゆっくりと頭ごと包むように…
其の大きな手を、私の額に当てた…

海底で酸素を与えられたように。暗い闇に灯りを灯されたように。
熱い、熱い棘が溶かされて… 2度、3度と長いその指が前髪を撫でた。
「偽名だろ」とぶつけておきながら、私が名乗った…その名を呼びながら―――



「大丈夫。……大丈夫だから」



    … 優しい 手 、 だった……



「―――ハァ…」



  また、だ……   



「…………、」



  何故? どうして……?   



「大丈夫だ。…そのままゆっくり…呼吸しろ」



    痛みが引いてゆく―――…



「ハァ……は、ぁ……」




    ……温かな木漏れ日の下に、連れて来られた様だ…




…全身に入っていた力が、額から全て抜けるように感じた。
そう、痛みも。―――大きな手を伝って…まるで、抜き取られたように……

世界の色が変わった。
…否、色が、着いた…。

ギリギリになっていた亀裂も花弁で埋められたように
色が見える、落ち着いて呼吸さえもが出来る……

…何故だ?…彼の言葉に比例するかの様な自分の身体に、私は逆に硬直した。
痛みが…消えた。私を常に縛り付けるように纏い付き襲いかかる、あの痛みが。

この男は何をした?
私に触れただけだ…触れただけなのに。
―――何故? どうして……


「―――…、落ち着いたか…?」

「…………」


男が上からゆっくりと、背中を向けている私の顔を伺い覗き込む。
まだ額に手は当てられたままで。……私は恐る恐ると、目線だけを後方に向けた。

その目が、酷く優しい。


「………っ…」


……私の中の弱さが、また何かを叫んだ…。
駄目だ…駄目だ駄目だ、何を言っている… 黙れ、黙れ……!

―――縋りたいなどと思うな…!!!


「―――…拒否反応とは少し違うわね…」

「…、そうか?」

「ええ……頭痛は分からないけれど、呼吸音が」

「………」


…女と会話をしながらも、眉をひそめた男の顔は、私を包むようにじっと見ている。
逆に私は、盗み見るように焦点をぼやかしながら…そちらを見た。

襟足だけが長いその特徴的な髪型が視界に入る。…変な髪型。
そしてその長い髪がサラリと首を降りた瞬間に、また…煙草の匂いが私を取り巻く。
その香りさえ――― 何故か、私に安寧を与えるように感じている…


「まだ痛むか…?」

「………」



……もう大丈夫…、とは言わず。私は無言で小さく顔を振った。
その私を見て男の口元が少し…笑う。思わずそれに吸い込まれそうになる。
駄目だ…と思い、早々と目を逸らし、また背中を向けたまま顔を枕に隠した。
その際に男の手は額から剥がれたが、もう痛みは…
また何事も無かったかの様にして私の中から消え去っている。

一体、何故…


「……じゃあ悪いが、後は頼む、薙」

「分かったわ」

「出来ればこの頭痛のことも…診てやってくれ」

「そのつもりよ。…他に何かある?少しでも心配事があるなら今の内に言って」

「…後は本人から聞いてくれ。いい加減行かないと勇午がキレる」

「―――勇午はこの子の事は?」

「まだ知らない。知っているのは俺とお前と葉哉だけだ」

「…他言しない方が良いのね?」

「…ああ、まだ」

「了解。……気を付けて」

「ああ」


早い会話だった。頭痛のおさまった脳でも、気を切り詰めていないと理解が出来なくなりそうな。
―――男はようやくこれから出掛けるらしい。他の仲間も一緒か…。
確か蜂という組織は、13人が1チームだったと…思った。
となるとこの女性も蜂…。蜂に女性が居るなんて知らなかった。ましてやアンダービー…。


「!」


カチャ、と…刀が持ち上がる音。
思わずそれに耳が反応する。聴覚だけでそれを確認しようと必死になった。
ああ、大丈夫…私の刀の音じゃない…昨日見せられた、あの男の漆黒の刀だ…

…私はあの漆黒の刀を知っている。
茜居家に仕えた中位家が代々用いる、茜鳳凰が掘られた…れっきとした茜居家の刀だ。

名前を 「烏」(からす)

使用者と共に行方知れずになったと聞いていたけれど、まさかこんな所で。
…あの男が何処までそれを知っているかは分からないが…

あの刀は―――……




最後に男の背中を見た。
腰に2本の刀を携えている。 漆黒の刀「烏」と、もう1本。
……藍と錫色の…刀身の短い刀。
まさかアレも…茜鳳凰の家紋が掘られている刀か…?

男が刀の音と共に姿を消した。
しん…と取り残された空気がひんやりと静まりかえったが、
まだ耳の中で刀が鳴る音が…延々と残っている。 

額にも、まだあの優しさを残し…






「さて、椿ちゃん…だったわね?」

「………」

「傷口を診たいの、起きあがれるかしら」



女が、場に似合わぬ…和やかな声を出した。
私は相変わらず女に背を向けた状態で視線だけを動かしていたのだが、
ほんの少し身体の位置をずらした瞬間…女は私の肩の下に手を滑り込ませてきた。
…柔らかで綺麗な女爪の、正しく女性の手だった。

女の手に抱き起こされ、私は不本意にベッドから上半身を起こす。
…不服感が顔全体から滲み出ていたらしい。
女は其れを見て「ごめんね」とにっこり……苦笑した。

そしてその顔を見た私―――の、顔を見て… 目を一瞬、ヒクリと動かす。


「…本当にオッドアイ」

「…………」

「初めて見たわ」


“本当にオッドアイ”。その台詞で何となく分かる。
あの男から…私の事を「オッドアイの女」とでも説明されたのだろう…
まったく嫌な説明をしてくれる男だ。

この両目が珍しいのは重々承知している。
奇妙がられるのも気味悪がられるのも、重宝されるのも慣れていた。

だがあまり誇りに思った事はない。
ましてや色合いが凶とも取れる。
 …黒い瞳は、 ヘヴンでは劣等系の意味をするからだ―――。

私の右目は歓迎されなかった。
望んでもいなかったこの継承を、どれだけ恨んだか……



「綺麗ね」

「………」



…本当だか。私の両目を見てそう笑う女から、私は目を逸らした。


「包帯を取るから。…背中向けてくれるかしら」


そうい言いながら女の手は無理矢理、私の両肩をグイと方向転換させている。
ベッドの上で壁の方を向き、背を―――見知らぬ女に向けた状態。
あまり…気の休まる状況ではなかった。
未だ何をされるか分からない。私はこの女の何を知っている訳ではないのだ。

あの男の、仲間と云うだけで…


「信頼などしていない」

「―――!」

「とでも言いたげね」



心の中で、銃か矢か何かが放たれたような衝撃が起こる。
汗ばんでいた額からまた新たな冷ややかさが通った。
思わず私は目を見開いて背中を振り返る…


「全身からそういうオーラが出てるわ」


にこ、と…女は笑いながら、私の背に…手を添える。
「今度は“何故?”って顔ね」と言いながら手早く、包帯の先の結び目を解いた。


「分かるわよ。…私も此処に来た時、蜂なんて存在…信頼してなかったもの」

「―――……」

「とても怖かったわ。ヒデの優しささえ」

「……ヒデ?」

「…さっきの男よ。やだ、名前教えてないのヒデってば?」



―――、いや、聞いた。
…人の顔を覚えるのが苦手なのと同時に、名前を覚えるのも苦手だった。
名字は何だっただろうか… 駄目だ。この女性の名前さえ、さっき言っていたのに思い出せない。


「と言うことは私の名前も言ってないのね?」

「………」

「私は華々見薙。薙で良いわよ」

「…………」

「まったく…余計な事の心配は出来るクセに、そう言うところ抜けてるのよね」



これだから男は、と呟きながら…
いつの間にか私の上半身の包帯が全て取り払われていた。
首も、肩も、腕も。そしてゆっくりと、血が滲んでいるガーゼを剥がす。


「痛くない?」

「―――…」

「喋れるなら口で言いなさい、喋らないとこのアングラの空気に声帯が慣れないわよ」

「………」

「そうしないといずれ、声が出なくなるわ」




この傷が治るまいが… 声が枯れようが… もう、関係無い。  …はずなのに。

この女が私の背に直接触れる。
其の手もやはり―――…温かい、と思ってしまった。
また…縋りたいと願ってしまう。 愚かな願い。 抱いてはいけない願い。



   生を願う 愚かな―――   ココロ   




「…此処、まだ痛みそうね…」

「―――!うっ…」

「ごめんね、少し我慢して。直ぐ終わるから」

「いッ……」

「もう少し」

「…う、…い、つッ……」


激痛が、私の中の何かを壊すように暴れた。ギッ、と…奥歯を強く噛んで堪える。
消毒液か何かが、ヒヤリと…左肩を貫くような冷たさと痛みを走らせた…。

何時負った傷だか憶えている… ヘヴンから逃げてくる時、政府の追っ手から撃たれた弾だ。
其れが左肩を鋭く掠めた。…抉られなかっただけ良かったと思ったが、軽くはなかった。
この傷で恐らく丸1日は走り回って逃げていた… もう駄目だと思った時、あの場所で蜘蛛の男達に囲まれたのだ。

そして―――



「…多少は動かせるかしら?」

「………」



左肩にきつくきつく包帯を巻かれている…。動くわけがないと思った。
いや、きっとそんなには酷く無かっただろう、ただ傷口の痛みがそれを過度に表現しているだけ。
恐る恐る左肩を上げてみる。―――想像以上に簡単に、関節さえも上げられた。
処方が上手い。自分でも驚いて、私は女の顔を振り返ってしまった…

クス、と… 綺麗な微笑みが私に降りかかった…



「大丈夫そうね。…他も診るから、そのままでいて。…あと、脚も診るわね」

「―――……」



何者、この女。
―――ヘヴンの医者よりも余程腕が立つのでは…


「女の子だから、丁寧に治療しないと跡になったら大変だもの」

「…………」




……大人しく、女の言葉に従う事にした。


生きるのも死ぬのも関係ないから。
―――…恐怖心を抱く事さえ、私には不相応だ。

好きにしてくれればいい。そう思えば良いと…弱い胸に言い聞かせた。







  縋っている、と…  また襲って来るであろうあの頭痛に、非難される  …前に。