背中から感じたあの体温を、忘れない

抱き込まれた肩が酷く安心した事も、忘れない



君が、「白いな」と呟たのも…憶えてる



髪を分けてうなじに唇を当ててきたのを、忘れない

首筋をなぞるようにして動くのに、全身がビクリと反応したのも… 忘れない




私はゆっくり振り返ったんだ







そして口付けをしたのを   …忘れない







今でも、あの夜を忘れていない


未だに、忘れられない―――











【008:I notice oneself who is drowned in such shallow sea】










………無意識に、手に力が入っていた。
少女の背に当てていた手が強く… その身体を引き寄せようとしてしまう。

それは少女へ何か特別な感情を示したわけでは、決して無い。
イヤ、その方がむしろ何百倍もマシだったのではないかと思う…

俺の手がそうしたのは、ただの―――…自己清算だ…
未だに引きずる過去のあの悔恨への、過ぎ去った願望…


本当はアイツにしてやらねばならなかった… 
此は本当なら、アイツにしてやらねばならなかった行為……



「…めてくれ…」

「―――、」

「も…やめて、くれ……」

「…………」



先程とは打って変わった、か細い声が…部屋に戦慄(わなな)いた。


「やめて……」


…俺はその声に逆に躊躇い、理性を取り戻す。
手の平から指先の順で、惜しみを持って少女の細い背から手を離した。…右手から熱が消える。
ああ…この少女に触れていた俺の体温も、上がっていたのだな…と実感した。
其れこそやはり人形のように冷たかった背だが、やはり血の流るる“人間”なのだと…教えるように。

そして惜しみを残す右手とは裏腹に、何故か胸の中はホッとしていた…。
―――このままこの少女を、あの過ちへと重ねるところだった。


それは俺のプライドにも、アイツの想いにも、冒涜へとしか繋がらない―――…



「大丈夫か。…横になれ…もう少し眠っていろ」

「…………」

「………まだ警戒してるのか。安心しろ、襲ったりなんかしない」


先程の行為の後に出す言葉ではないが。
…今この少女の背を抱いたのは、決してそんな邪曲な煩悩が理由では無い。
俺は小さく、少女の包帯だらけの貧相な上半身に目をやった…
大体こんな怪我をした女を襲おうと思う方がどうかしているだろうが。



「貴様は、強いか…?」

「―――」




     キサマハ ツヨイカ?



俺は眉をひそめ、包帯の上半身から再び…少女の整った顔へと目線を上げた。
…同じように…少女も目だけで俺を相手するように見上げている。
獣のように警戒していた目は逆に、全く色の無い空虚的な表情に戻っていた―――

昨日と同じ。 無表情の人形。


「……強いよ。其れがどうした」

「…………」



なのに…何故なのか。
また俺は少女の色違いの量の瞳に、吸い付かれるように見入った…

―――そうだ。 こんなにも無表情なのに、今にも泣き出しそうなんだ…

少しでも目を逸らしたら、崩れ出してしまうと思った。
崩れる前に、手を添えて護りたくなる。  あまりにも脆そうで―――…




「……私を…殺してくれ」




 …とても、哀しいのだ…

 少女の姿全てが――― 何故か急に… 痛々しく映った。



昨日は「殺してくれれば良かったのに」だった。
…今度は、「殺してくれ」?
…馬鹿げたことを言ってくれる。
まだ人生の半分も知り得ていないような餓鬼には、偉すぎる台詞だ。


「―――……」

「……お願いだ…」

「…………」

「…殺してくれ…」



正直相手が少女でなければ、一発殴るか殺気で脅すかくらいしてやりたいと思っただろう。
当然…こんな綺麗な女を相手に、自分がそんな事が出来るはずもないと分かっているが。
俺は自分の襟足に指を通し首筋を掻き、そのまま1度首を捻った。コキ…と、骨が小さな音を立てる。


「…悪いな、俺には助けた奴を殺す趣味は無い…」

「…………」

「ましてや女を殺めるなんて、想像したくも無い」

「では私が男だったら、殺してくれた?」

「いいや」

「―――…」


矛盾している、と…小さく呟かれた。
そうだな。だがお前も充分矛盾している。


「…死にたいなら大人しく牢の中に居れば良かっただろうが、脱獄囚」

「…逃がされたんだ」

「………逃がされた?…誰に」

「…………死にたかったのに…」

「…………」



少女は細い指で、その包帯だらけの細い腕を抱きしめるように… 両腕を抱えた。
血色の悪い唇にまた力が入り、その形は一文字に。
これ以上強く噛むと、本当に唇の端が切れてしまうと思った。
…どんな形であれ、女が無駄に血を流すのは……見たくない。


「…ヘヴンで何をしたのか話してくれないか」

「貴様に関係無いと言ってるだろう…」

「助けた以上、無関係とは言われたくねェな」


俺はそう言いながら、真っ直ぐに少女の目に言い聞かせた。
黒と真紅のオッドアイは、悔いる様に窓の外に目を逸らす。
だがその目も哀しげに…行く場所を失うように閉じられた。

…逃げられる場所など無いのだと… 悟り、諦めたかのように…。



「無関係でないなら…今ここで貴様が、私を殺してくれ―――」


……また、言うか。


「貴様は強いのだろう…?……早く、殺してくれ」

「……………」

「生きる場所も意味も、もう無いんだ…」


そう言いながら…哀しい色の吊り目が、ゆっくりと色無く開かれる。
睫毛が斜め下に下がり、また少し…色っぽい表情をした。
その女性らしさの中にやはりどこか…淋しさが見え隠れしていて、
少女の妙な色気は恐らく、その中にあるのだろうと思った……


「ヘヴンで何をしてきたのか…話してくれたら考えてやっても良い」

「………」



後どれだけ催促してやれば話す気になってくれるか…
気が遠くなりそうだった。…女を相手の尋問は得意じゃない…。
そう思ったら丸見えの嘘が口から出た。
―――当然、少女が皮肉な目で俺を貫いて終わる。


「…だよな。………じゃあ、どうすれば話してくれる?」


俺は鼻で大きく溜息を付き、ベッドに座っている少女の目線よりも下へとしゃがんだ。
いわゆるガラの悪い連中の様な座り方だが、俯いている彼女の顔色を伺うには此しかない。
オッドアイを覗き込むように見つめると、少女はそれから逃げるようにして… 3秒ほど、瞼を閉じた。

駄目か。目を見て真剣に訊こうとすれば少しは心を許してくれると思ったが。…そんなにも甘く無い。
ゆっくりと立ち上がり、 手に持ったままのジャケットから煙草を探り取り出そうとする。
長引くだろうと思い神経をすり減らさないためにもニコチンに頼ろうとしたのだ…
―――が、煙草は目が覚めた時に最後の1本を吸ってしまったのだ、と思い出す。
ついさっき「今日は控えよう」と思ったばかりなのも思い出す。…全く、意志が弱い…。

しかし参った。…尋問は、人の話や相談を聞くのが最も上手い団員、薙に頼るのが効率的だ。
蜘蛛の連中から話を聞き出す話術は勿論、チームのメンバーの相談役さえこなす腕を持っている…
ましてや今回の相手は少女、尚更女性である彼女の方が向いていると思えた。

だが何故だろうか。…此処で薙を呼んでこよう、とはしなかった。
意地か何かは分からないが、……どうしても、俺自身が…解決したいと思った。
解決?否、違う。


俺自身が、この少女の事を知りたいと思っている…  


煙草も薙も諦め、今度は俺は少女の隣に意志を定めた。
…ゆっくりと、再びベッドに腰を掛ける。 ギシ、と、俺の重みで少女の身体も共に少し沈んだ。




「……“茜居”…、」

「―――!!!!」


ビクッ!!っと、此までに無い程の恐怖が、少女の表情に現れた。
こういう反応が出るだろうと分かって俺は言った…。
だからこの少女の反応に対しては驚きはしないが。…その後の反応だ。
此が「信頼」に繋がるか、それとも「恐怖」へと変わってしまうか…

……少女がわなわなと、顎を震わせた。
何故…と、小さく…音になっていない、空気のような声で呟く。
―――とりあえずは、怯えさせてしまったか……


「……何故…その、名を… 知って、る…」

「…刀」

「…………」

「昨日お前はあの白銀の刀を“自分の物だ”と言っただろ… あの刀だ。…鍔に茜鳳凰の家紋が掘られている」

「……!何…故…そんな、事」

「怯えるな。何度も言うが、俺はお前の敵じゃない」


言うより表す方が簡単だろう。俺はそう思い、少女の隣から立ち上がった。
…デスク奥の普段は使わない古い刀掛けから、少女の純白の刀とは正反対の… 漆黒の刀を手に取る。


「………!」

「此が何か分かるな。…お前の物と同じ、茜鳳凰の刀だ」

「………そ… な、……」

「尤も、お前の刀ほど良質な物じゃないけれどな」

「………貴様…は、…何者だ……」

「…。お前と同じ、嘗て茜居の家に仕えた者だ。今は俺は無関係だが」

「―――………仕え……」



少女は未だ、信じられないと言った目で目の前の状況を拒絶するような顔をしていた。
だが俺の手にある刀と、俺の言葉を…どうやっても否定は出来ない。
確かに、茜居という1つの家の従者が、この広いアングラでたまたま鉢合わせる確率なんて…
一体何万分の1なんだろうな。受け入れられない、信じたくない、という気持ちは汲んでやろう。だが…


「信じられないのなら付け足してやろうか」

「―――…、」

「「椿」、お前が名乗ったその名。…それは13年前に亡くなられた、茜居家次期当主の名だろう?」

「………っ…」

「思い付きで偽名として名乗ったのだろうが、徒となったな…」


目線を逸らし、少女は困ったように俯いた…。 図星だと見える。
…だが其れが目的じゃない、嘘を見破って信頼が得られるわけではないのだから。
―――今必要なのは、俺がこの少女に近しい存在であると言うこと。……少女を安心させること…


「…案ずるな。俺はもうあの家に仕えている身では無い…」


だが其れを聴いて、ゆっくりと少女は再び…額に手を当てた。
また、ぎゅ、と…血相の悪い唇に力が入る。


「……お前の本当の名は?」

「―――…」

「ヘヴンで何をしてきた」

「………っ…」

「全て話せ」



部屋に再び…不安定な呼吸音が響いた。
…否、再びと言うにはいささか相応しくない。

先程以上に――― 苦しそうな情景が、目の前に飛び込む。


「―――ハァ、…っ……ハァ…」

「………」

「う……ハァッ…!!」

「……大丈夫か…」


必死に額を押さえ、痛みに耐える苦しげな表情が… 激しく歪む。
目尻に微かに涙が滲んだ。……それでも、声を上げもしないし… 泣きもしない。

上下する肩が震えた。―――病の様に響く痛烈な嘆きの呼吸。
俺は刀をベッドに預け、再びゆっくりと少女の背に手を添える。


「オイ…しっかりし―――」

「…して」

「…………」




     コロシテ



「殺して……お願いだから……」




……何故…




「…殺して……」




何故だ。
何故…こんなに、哀しいのだろう…


死にたければ自分1人で死ね、と…投げつけることさえ出来なかった。
こんなに淋しい声で… 死を望むものか。


今にも泣き出しそうな…





     殺して、と 溺れそうな声で呟くその言葉が―――

     “助けて”、と… 泣いている様に聞こえる……





俺はなぞる様にして、肉付きの薄い痩せたその背中にしっかりと手を当てる。
苦しげに吐き出される息が、まるで少女の破片であるかのように見え、

静かに俺は目を閉じた…

何故そんなにも自分の死を正しいと言い切るのか。
…理解不能だ。否、理解したくもない…。

……生きたいと言って、死んでゆく人々を知っている。
病、事故、事件、様々な悲劇に呑み込まれ悔いながら死んでゆく、哀しい人達を。

死にたくないと言って…死んだ者を知っている。
―――最後まで俺の名を呼んで、死んでいった… 哀しい者を……


……では何故、生きていながら… 命を持ちながら、今目の前で…
こんなにも哀しい目をした少女が、存在するのだ。



何故――― 死を望みながら、「助けて」 と叫んで見える…   淋しく映る存在が…





「…椿、」




ゆっくりと、手を伸ばした。
呼べるはずもないと思った名を…  呼ばずにいられなかった。 呼びたいと…思った。

触れたかった物に触れた、その時の俺の右手は…  永遠に忘れられない、



「―――…!」



         大切な物を知った瞬間だった―――…



「死んだ方が良い存在など、この世には無い」

「……………、」


1番辛そうだった額に手を当て…その小さな頭から、ゆっくりと指を下ろしてゆく。

絹の様な…髪だった…… 細く、柔らかな…女らしい髪。
触れるまではただ“綺麗”としか表現できなかったが、
指を通した瞬間――― それは明らかに変わった。


触れていたい…と、思った……。



「……どんな人間でも、誰か1人には…必要とされているものだ」

「―――……」

「世界中から死を望まれている人間など、存在しない」


ゆっくりと… 少女の眉の間から力が抜ける。
ずっと力んでいた表情に緩みが出た。
其れと同時に俺はまた、ゆっくりと少女の前髪に触れる…

流れる水のようで… 其れはまるで病のように繰り返した。



「お前を逃がした奴が、お前にどんな情があるかは知らないが…」

「―――…」

「まず、其奴の為に生きろ。……お前に生を願って逃がしたのなら」

「………でも私は、」

「罪人なら罪を償って生きろ」


「…………」




ゆっくりと… 少女の目が見開いて、俺を此までにない表情で見つめた…

初めて、俺を“何か”として見るような目だった。
今までとは明らかに違う、別世界を知った子供のような…そんな目。




「罪人だろうと… 何処かに、お前が死んだら悲しむ人間が居るんだ―――」





だから、死など選ぶな。
罪を償ってでも生きろ―――  お前を必要とする人間の為になら、其れ位したって良いだろうが。




「……痛みは、引いたか」

「―――……」


呆然と俺を見ているその顔が、やはり先程までとは偉く違う。
其れが存外年相応に可愛らしく見え、俺は再び少女の額に手を置いてやった。

…痛みを伴っていただけある、若干熱を持って熱い…
何度かその額を、撫でるようにして手を置き直す。


……少女の顔から、表情の力が抜けた。
―――無表情から… 無垢になる。


やはり… 綺麗な少女だ。
派手な顔をしているわけではない、絶世の美女と謳うには少々違うと思うが、
清楚な美人だと思った。……性格さえ、もう少し素直だったら。


「俺は今から少し部屋を空ける。…もうしばらく眠っていろ」

「…………」

その前に、其の怪我を診に女を呼ぶ。仲間だ。…警戒しなくて良いから」


目を逸らすだろうと思った台詞の後に、少女は小さく頷いて見せた。
―――ほんの1・2センチほどの反応だったと思うが、見落とさなかった。

額から手を離し、もう1度だけ… 前髪に触れた。






煙草が無くて空いてしまった右手が、其れを求めているせいだと…  その時は思う事にしていた―――…

そうしないと、ただ罪悪感という尾鰭に…   縛り付けておいた後悔と感情が、壊されそうで









…怖かった