「傘」を何故、「花」と比喩するのだと思う?

お前は俺にそう訊いた




傘は、人を雨から護るためにある
花は、その下に住まう虫を雨から護る
…それが同じだからじゃないか?

俺はお前にそう言った




ではアングラの人々は、クイーンという傘の花に護られているのか?

お前は訊いた




…ああ、確かに… 俺達「蜂」は、クイーンの上の御上共に護られてる、
堕ちた虫の群だよ

俺は答えた






花の下に逃げる事も、花の上で蜜を吸う事も出来る…   俺達は卑怯な虫だよ…











【010:If you have some magic you can make me stop crying】











「ハイ、良いわ。おしまい」


「―――……」



…ベッドの香りとは正反対。 終始、花の香水の香りがした。
そんな洒落た事からは無縁の人生だった故に、何の花かなどは分からないが…
腕から、首から。柔らかな女性らしい香りが漂った。


「きつくないかしら?」

「………」

「声出しなさい。…喋れなくなるわよ」


………。
大丈夫だ…と、私は小さく答えた。

その声を聞いたのも含め、脚までの包帯を綺麗に巻き直して女は満足したように息を付く。
…全てのガーゼが血塗れでガチガチに固まっていた…通りで気持ちが悪かった。
傷口全てを綺麗な白に包み直され、私も少し落ち着いたのを感じる。
……さっきよりも呼吸がし易い、とさえ思った。


薄暗い部屋は相変わらず海の底の様だが、
私の身体は先程と比べて酷く落ち着いていた。…逆に怖くなるほどに。

頭痛の予兆も無い。目の前の女に対しても…さほど警戒していない。

汚れた包帯を処理し、今度は逆に女が逆に私に背を向けている状態になった。
…今の愚かな状態の私でも、其の背は―――貫こうと思えば、いつだって貫ける背だった。
此処を飛び出しまた何処ぞへ逃げる事だって…出来るだろう。


それでも私の身体をそうさせないのは、2人の手だと… 感じた。
―――“優しい”と意外何と言って良いか分からぬ、2人の手。


私の背と額に触れるあの男の手と、
私の傷を癒そうと治療をする女の手。

ぼんやりと私は腑抜けた様に、女の後ろ姿を見つめた…。
…飴色の明るい髪の毛。ふわりとした香り。優しい口調。
……もしかしてあの男の恋人とか そんなのだろうか。


「ねえ椿ちゃん。…椿って云うのは…本名?」

「……、」


チクリ、と、細い針で頬をつつかれたような感覚。
背を向けたままの突如の女の質問…。 もう尋問の開始か。
そうだな、確かにあの男は言っていた。「後は頼む」と。

先程私が男に黙り続けた事柄を…この女に話させようと云うのだろう。
…―――私は緩み掛けていた心を強く縛り直すように、唇に力を入れた…。


「ヒデが『偽名だ』って断言してたんだけど…そうなのかしら?」


…真実を言ったところで信じる訳もないと、確信が持てている。
偽名だと思うなら偽名だと思われたままで良いし、偽名と言い切る。
私の口から本当の名を言ったところで…それをまた「本名」と、誰が判断するのだ?

ましてやあの「烏」を持っている男は…茜居椿という人間が死んでいることを知っている。
どう繕っても、茜鳳凰の刀を持っている私の此の名、「椿」は偽名であろう…。
もう諦めはついている。 ―――否、ハナから希望など抱いていない…。


「…私の名では無い」

「そう。…本当の名前は?」

「………」

「言いたくない?」

「出来れば」

「そ、じゃあ椿ちゃんのままで良いわね」

「………」



らしからぬ会話。…その程度なのか?
私は少し不服を抱き女を真っ直ぐに見た。
いや、真実を聞き出されない分には良い…

だが女は未だ私に背を向けたまま、治療器具の片付けを続けている。
…血で汚れた手袋を剥ぎ、清潔なアルコールの布でその綺麗な手を拭く瞬間、
花の香りも煙草の匂いも飛ぶように掻き消され其れが鼻を突いた。


「本当の名は…訊かないのか」

「嫌ならそれで良いじゃない。本名じゃない奴なんてこのアングラじゃ沢山いるわ」

「……そうか」

「じゃあ次の質問。…どうして「堕ちて」きたのかしら?」

「………」

「一応“罪人”だとは聞いたけれど。…何をしてきたのかは、話してくれない?」

「…………話さなくては駄目か」

「こっちは出来れば話して欲しいわ。…逃げてきた理由も含めて」

「逃がされただけだ…私の意志じゃない」

「でもその脚で此処まで逃げてきた、それは貴女の意志だわ」

「………」

「逃がされたのにも理由があるんじゃないかしら」

「…………」

「その沈黙にも」



嫌な女。…尋問らしからぬと思ったついさっきの自分を取り消した。
確かにあの男よりもずっと尋問が上手い。吐く前に悟られる予感がする。
…こんな状況下に置かれ続けるのならばやはり殺された方が良いと思った…

……私は何を語るつもりも無い。



   口に出したところでこんな話を、    私を、誰が信じる―――…



「話して頂戴」

「……話して、どうする」

「場合によっては、貴女を助けるわ」

「………助ける?」

「ヒデはそういう男。…特に女性に対してはね」

「………」


信じられない?と、女は笑いながらようやく私を振り返った。
相も変わらずの…綺麗な花のような笑顔。背景に綺麗な絵柄が飛びそうだと思う。

其れから目を逸らし、私は小さく顔を振った。
……別に、あの男が信じられないと言うわけではない。


私は最初から誰も信じていないだけ。
信じてはいけないだけ。
  ―――信じようなどと思っては、いけないだけ……


「………困ったわね」


女は立ち上がると迷いもせず、そっ、と、ベッドに腰を掛けてきた。
丁度私の腰がある位置の直ぐ隣だ。表情は、慣れた余裕のある笑顔。


「じゃあ先に、私の話をするわ。……ヒデのことも含めてね」


…この女の話?何故?
だが親近感と言うよりも―――領域を持たない人、そういう印象が付く。


「………何故貴女の話など」

「相手のことを聞くならまず自分のことから。そう思わない?」

「・・・・・・」



正しい。其れは私も同意見だった。
…近すぎずも遠すぎない女の話し方は、距離感が無い…と思った。
この人の笑顔や香り、そしてその手の優しさがそうさせるのだと感じる。
話を聞く態勢が…私の中に生まれてゆく。 本当に、上手い女だ。


「…簡単に話すわ。私はね、ヘヴンの上流階級の家の娘だったの」

「…………」

「企業を抱えるそこそこ有名な家だったわ」

「…“だった”」

「ええ。“だった”。―――没落したの
。…それで親に売り飛ばされたのよ。アングラにね」

「………」

「淫売屋」

「…!」


口を紡いだ私を相手に、女は微笑さえをも含めて続けた。
地下の浸水したパイプなんて、下水の匂いなんて、そんな汚れなど知らなそうな人。
……そんな女性の口から出る言葉だとは思わなかった。

淫売屋。…ヘヴンにも僻地には存在するが、アングラの其れともなると如何な物なのか。
包帯の下の肩が寒気で少し鳥肌を立てる…。


「地獄宿って言う言葉知ってるかしら?正にその通りよ」

「………」

「地獄だった。……たった半年で、逃げ出したの」

「……」

「でも、半年耐えたの。…死にたい気持ちで、耐えたわ」


半年。…決して短くないだろう。
自分の身に起こり得たら、果たして半年生きていられる?
そう思ってまた、空気に触れていないはずの肩さえもが寒気を叫んだ。


「でも結局捕まったんだけれどね。…追っ手じゃなくて、蜘蛛に」

「…………」

「その場でまた襲われた。…ああ、殺されるんだわ、って…覚悟をしたわ」


女の目が… 遠くを見た。
その瞬間に自分の視界にも、白い風が吹くよ様に映像が流れ出す…




   『ハァ… ハァッ…!』


    『オイ、この女』         

     『ああ、拒否反応出てるじゃねェか…』                 

   『ヒヒッ!てことはヘヴンの人間か…!』           

      『こりゃあ良い。漬けにして売り払おうぜ』                      

    『良い女だ…金になるぞ』            

       『ヒヒヒ、オイ、殺すんじゃねーぞ』   

   『分かってるって…』
                    



     殺される           

    殺される    今度こそ、殺される               


       殺される…    



                殺される―――…!!!       




 
     『ああぁッ!!!』    


       『ぐっぁァアア!!』           

     『ア、アマがぁッ……』   




     必死に…刀を振っていた。
     まだ抗える力も残っていた。
     …充分に戦えた。 戦ってどうするかは決めていなかったけれど  せめて

     ―――…限界が来るまでは。



       『ゴホッ…!!!』              

      『っ、…や、やれェエエ!!!!』   






「その時にね… 漆黒の刀を構えた黒スーツの男が、目の前で鮮血を纏って現れたの」






           そう、真っ黒な―――   烏のような男… 





 
  “ …6番街19地区リーダー、浅霧秀兎だ… ”                      




           ああ、 名前… 思い出した…



           アサギリ ヒデト―――。





「其奴が現れて、気付いた時には…周りの風景が全て倒れてたの」
「…最初はね、その男が血塗れで現れただけに見えたわ」
「勿論…その男が蜘蛛を斬って私を助けてくれた、と云うのが正しいんだけれど」


自分の映像と、女が語る情景がリンクする。

そう…意識を失いそうになったあの瞬間、地面に倒れると思ったあの瞬間、
もの凄い早さで優しい…真っ黒な風に包まれたと思った…。

それがあの男だった。アレは戦い慣れている脚。
そして戦い慣れている腕と殺気―――。



「でも、そんな彼さえ怖かった…逃げ出したかった。だけどその男は、私の前で腰を屈めて言ったの」



      “敵じゃない、安心しろ…”
                 


「………」


そこも同じ。……私にもそう言った気がする。
だが私はあの時、呼吸が出来ず、苦しくて、…目の前もどんどん霞んで何も見えなくて…


「それで、あの細腕の何処にそんな力があるのか分からないけれど…怯えていた私を見て、抱き上げて、
 急いでこのパルプまで連れてきてくれたのよ。…今の貴女と同じ。このベッドの上に」


この、ベッドの上に。
…私はただぼんやりと、汚れの無い清潔なシーツを見つめた。
暗い海底に用意された真っ白な貝殻の上。
「煙草臭いでしょう?」と…女が笑う。…確かにそれは否定出来無い。


「でも、男の部屋で、ベッドの上。……また犯されるんじゃないかって思ったわ」

「………」

「だからまた諦めようと思った」


淫売屋での生活のせいで、男という生物から見た自分が、
そう言う対象であるとしか思えなくなっていたのね…と、女は自嘲する。


「…でも、男は何もしなかったの」


道端で姿を見られただけで、強淫し薬を投与し売り払おうとする男達が住むアングラで…
自室の、自分のベッドの上に女性を寝かせて…何もしない男が存在している。
―――私はヘヴンから堕ちてきただけの無知な人間だが、充分に「おかしな世界だ」と思えた。
神は…何故こんなにも不均等な人格を、個々に与えるのだろう…


「変な男よね。地獄宿から逃げてきたって言っても、興味を示さなかったわ。
 …ただ哀しい顔して、“そうか”って…同情をしてくれた」



同情…? …同情など貰ってどうするのだろう。
其の感情が優しいのか冷たいのかは分からなかった。

何の解決にも至らない。…意味のない馴れ合いと同じだとしか…思えずに。
だが其の次の瞬間に、女の表情は“綺麗”を越えた…そんな風な彩りを見せた。
纏っている香水が、本当に彼女自身が放っているかの様な。 花の様に。


「その同情が…痛いくらいに、優しくて…嬉しかったの」



     ウレシカッタ?     



「―――…」


……同情を喜ぶ人間は… 弱い人間…だと…、思う。
…自分の辛い思いを慰めて貰って満足する…そう言う人間の。

だから私は同情などされたくない。いつだってそんな物は受け取らなかった。
例えばこの両の目のことだって。…黒という劣等色を慰められようとも、情を与えられようとも、
全て切り裂いてきた。惨めなだけだ…

それでも、直ぐ隣に座る女の花の顔を否定できなかった。
だが否む必要も無い… 其れを嬉しいと思ったのなら嬉しいと思えば良い。
私には関係ないのだ―――…


「それから彼は御上に連絡を取って、不正手続きでアングラに送られた私をヘヴンに帰そうと手続きしてくれた」


そんな方法もあるのか。…世の中荒んでいる様に見えて、良くできている物だ…。
…だが1度アングラへ堕ち、その上淫売屋に身を置いていた女だ。
政府云々では無く、元の生活に戻った時の彼女の周りの人間の反応の方が、
男よりも銃よりも刑よりも、余程残酷な物になる印象が私にはあった。

勿論其れは自分の身にも同じ事。
例えば今私がヘヴンに戻れたとて… 誰が私を受け止める?


「懸命になってくれた。……何日も私を此処に置いて、面倒を見てくれたの」



女は続けた。…その間男は勿論、同じ此の部屋で生活をしていたが、一切何もしてこなかったと。
「気分はどうだ」「大丈夫か」「安心しろ」と、言うだけだったと…。


「……嬉しかった」


また、その言葉か。 ……ウレシカッタ。

手を伸ばし、女は暗い海底から海面の方を仰ぐ…。
それから煙草臭いこのベッドを見やり、綺麗な其の右手を滑らせた。

静かで寒々しい暗い此の部屋で…女の笑顔は不似合いな程の幸福を私に教える。
あの男がそれほどの善人だと。そんな話の筈が、何故か彼女の方が嬉しそうに見えた。
…ああやはり、あの男の恋人なのだろうと悟る。


「そしてようやく、私をヘヴンに帰す手立てと手続きが済む日が来たのだけれど…
 でも私はそれを断ったわ。……此処に居させて欲しいと、彼に願ったの」


……それは貴女が、あの男を好きだからか、…それとも別の意味なのか。
分からなかったが聞こうとも思わなかった。…やはり自分には関係ないと思うから。



「困った顔をしたけれど、彼は承諾してくれた。…それから数ヶ月後、チームに欠員が出て…
 私の願いもあって、彼は代わりに私を団員として任命してくれた。助役としてね」



その任命までも、約2ヶ月くらい掛かったんだけれど…と苦笑をしている。


「ヒデはそういう男。…貴女のことも悪くなんてしないわ。言い切ってあげる」


だからそれはきっと、あの男が貴女を好きだったからなのだろう?
言い返しても良かったが… それもやはり、私には無関係だと呑み込んだ。
あの男が善人だという話は受け入れよう、私を殺してもくれない奴なのも分かっている。

とりあえず女の言いたい事は分かった。
あの浅霧秀兎という男が、どれほど自分に対して無害か。
…そして救いの神であるかを表明したかったのであろう。

貴女がどれだけ彼に救われたかという前例を経て。



「だからと言う訳じゃないけど…質問に答えて欲しいの」



だからと言う訳ではないが、それは私があの男に甘えを請う理由には成らない―――。



「貴女が堕ちてきた理由によっては、何の害も無くヘヴンに帰してあげることだって出来るかも知れないわ…」





そんな方法有る訳がない。
だから私にもう、生きる希望など与えないで。


私にもう、選択肢など与えないで。

温かさなど与えないで。




優しさなど―――   与えないで……
    叫び散らそうかと思った。




「そんな方法など存在しない」

「…まだ、ヒデを信じられない?」


「関係無い。……私は無事にヘヴンになんて、帰れやしない」





でもそんな感情を向きだしにする事も、無駄だと思う。
優しさに縋ろうとすることさえ、無駄な足掻き―――。


ただ、貴女は確かに尋問が上手い。
何も話す気の無かった私が、


私の身に科せられている施錠の固さを、話したのだから。









「…私は死刑囚だ」









…どんなに喚こうが…  私に待つのは 死だけだ と…