逃げろ          

逃げねば…


逃げねば ――――!






何処へ?         


何処へ逃げる?   







     「いたぞ、アレだ!」







逃げねば    




  逃げね…ば……












「      !」






      コ ロ セ
















【006:Surely the lies doesn't have a meaning】












「―――ぁっ、 うッ……!!!」


「!」




ベッドでか細い声が上がり、俺は手に持っていたコーヒーカップをデスクに置いた。
見つめていた窓の先の静止画に慣れすぎて、
背後から聞こえた女の声に少しだけ心臓が驚いている。


疲れとは裏腹に、ソファに沈んでからたったの3時間で目が覚めた。
どうせ眠れないのなら眠らない方が良い、そう考えてコーヒーを煎れた。
…葉哉が入れるのよりもずっと濃い、カフェイン濃度の高いものを。

それから約1時間。…ベッドから声が上がった。
目を覚ました、か…

正直あと5,6時間は眠ったままでもおかしくないと思ったのだが、
やはり…少女とは思えぬ並外れた精神力を備えている。大したものだ。

少女はベッドから体を起こさない状態で、
自分の額に右手を当てて…表情を歪めていた。
まだ空気が身体に合わないか、それとも…嫌な夢でも見たか。



「気分はどうだ」

「………、」



俺がそう言いながら、2mまで、近付く。
…少女はそれに気付き、怪訝そうな目で…じっと俺を見た。
警戒と言うよりは…理解不能・複雑、そう言った顔だった。
それもそうだろう…目が覚めて突如知らぬ部屋のベッドの上で、近くには知らぬ男が居るのだから。

そしてその、俺を見る両目に…思わず見とれた。
グラッ…と…… 彼女の瞳に吸い込まれるような感覚さえした。
少しだけ上に吊っているやや大きな目。

その左右の色が――― 右が黒で、左が真紅。
やはりだ…見間違えではなかった。



オッドアイ。 



珍しいことこの上ない、そして 何て美しい色合いだ……



「………此処、は」


うつろな口調で問うてくる。だが震えてはいなかった。
…意識は大分しっかりしているようだ…。


「アングラだ。……蜂、と言って分かるか」

「…………」

「平たく言えば警察だ。…此処はその事務所の上、俺の部屋」

「………」

「安心しろ、敵じゃない。…お前の身体を狙った連中を始末している役回りだ」



身体を、その単語を聞いて少女はハタとしていた。
自分の両腕を抱くようにすると、肩や腕にしっかりと包帯が巻かれているのに気付いたらしい。
…ゆっくりと、怪我を撫でるように…腕を指でなぞる。


「…怖がらなくて良い」


…目が覚めて間も無いというのを気遣い、俺はなかなか少女には近付かなかった。
だが少女の表情、まるで人間と言うよりも、西洋人形か何かのような…
そのあまりにも熱のない無表情さに…むしろ“近付けない”という方が正しい気さえしてくる。

―――黒と真紅の綺麗な瞳。
目尻に掛けて少し吊っている、大きな瞳で… ただ俺を凝視していた。

普通ならこの状況が分からず、俺を怖れて目を逸らしても良いものだろう。
だが全くのその逆だ。…少女は再び右手で額を押さえ、まだ、俺を見ている…
また…吸い込まれるかと思った。 何度も見とれてしまう。


「……呼吸は、出来るか」

「―――…、」

「…呼吸は苦しくないかと、聞いてるんだ」


無理に1m、間合いを詰めた。
そして俺はゆっくりと…横になっている状態の少女の目線と、
自分の目線を合わせる為にしゃがむ。…顔が、小さい……と、思った。
少し間を持ってからその小さな顔が、コク…と浅く1度頷く。

少女は鼻で呼吸をしている。布団の下で胸部が上下した…。
肺で呼吸が出来ている証拠。…確かに大丈夫そうだ。


「色々と聞きたいことがある、質問に答えて欲しい」

「―――……」

「起きあがれるか。……コーヒーで良ければいれる」


唇を引き締めたまま、今度は少女は小さく顔を左右に振った…
心配しなくても毒なんか盛らない、そう付け足したが少女の答えは同じ。
俺はデスクの方に戻り、キャスターの付いている椅子を引っ張ってくる。
その間に少女はゆっくりと、上半身だけを起こした。
右腕をベッドに付いた瞬間にギシリとスプリングが鳴った…


アングラの人間は、ヘヴンの人間よりも色が白い。
―――単純に、直射日光を浴びることが出来ないからだ。
ヘヴンにいた人間でも、1年アングラで過ごすだけで肌の色が変わる。

…がしかし、俺は自分の目を疑った。
……起き上がった少女の上半身の、白さ。
キャミソールの作りをしているドレスは、その白い肩も腕も胸元もよく見える。
…改めて見ると不思議だった。…否、おかしいと思った。

本当にこの女、ヘヴンの人間か…?


「お前は…ヘヴンの人間か」

「………」

「喋れるなら答えろ。此処は警察だ」



脅すまいと思ってはいたが、俺の言葉に反発するかの様少女はゆっくりとこちらを睨んだ。
気の強そうな外見とよく似合う、やはり並大抵の精神力ではない。


「…ヘヴンから来たのか」


少女は声を発さない。 コクリ、と小さく頷くだけだった。


「何故」

「………」

「答えろ」

「………」


目線がゆっくりと、下に落ちる。
其れと同時にまた右手が…額を覆うようにして当てられた。
さほど睫毛が長い目では無いと思ったが、その瞼を閉じると無表情の顔が、
とたんに色気のある顔になると感じる…。こんな少女にいちいち見とれている自分が嫌になった。
幾つ歳の差があると思っている…軽く10くらいはありそうじゃないか。

…理性を奪われまいと、俺は強く息を吐いた。


「何が理由でアングラへ来た。答えてくれ」

「………」


少女はまた顔を左右に振る。
“覚えてない”、か。……果たして本当か。

だが目の当たりにされる少女の熱の無い… 何処か哀しい其の顔を相手に、
嘘を吐くな、などと冷酷に怒鳴れる自信はなかった。
―――…分かってる、だからカズや薙に笑われるのだ…。


「何も覚えていないのか」

「……」



コク、と、少しの戸惑いを含めながら浅く頷く。
まだ右手は、額に当てられたまま。…頭痛でもするのか…?


「…じゃあ、ヒトを斬った事は」

「…………」

「このアングラで数人の男を斬った事は、覚えているか」

「―――………」

「…覚えているな?」



額を抑える腕の下で、少女の目線が上がった―――其れは確信だと、判断する。
そして反論はない。…沈黙だけが答えと言わんばかりに。


「…お前が斬ったあの連中は、蜘蛛と称される組織だ。ヤクをヘヴンへ密輸密売している」

「…………」

「御上から暗殺指令が出る様な存在だ、いわば俺達の敵、事実上は斬る事自体問題無いと言って良い…」

「………」

「…だが蜂でも無いお前が」

「犯されそうになった」

「―――…」



突如声を遮って、少女が真っ直ぐに言った。
先程までほぼ無言で、頷くか顔を振るかでしか返答をしていなかったのが…
突如しっかりと言葉を放つ。それも凛とした声で。
いや、確かにあの状況は分かってはいたが…まさかそんな言葉を言わせるつもりもなかった…。
思わず俺は息を呑み言葉を失う。


「…自己防衛だ。…それでもあれは私の罪になるのか、警察官殿」


…整った口調、射抜くような視線。
少女はまた右手を額から離し、両方の目が見えるように…俺に顔を向ける。



「…それとも、大人しく犯されながら、貴様が来てくれるのを待っていた方が良かったのか」



気付いてはいたが、 正直… ゾッとした。
こんな台詞を言ってもだ…… 先程から痛いくらいに少女の表情が変わらない。

ずっと無表情だ。 ただ淡々と、話し、答え、言う。 ……本当に、人形のように。


………。心の中で舌を打ちながら、俺は目を閉じた。
徐に右手でYシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。
素早くジッポを鳴らし、深く深くニコチンの煙を肺に吸い込んだ……


「―――罪にはならない。むしろ蜘蛛を斬る事は法律上、誰が行っても罪にならない事になっている」


おかしな世の中だ。其れが罪人ならば斬っても罪にならない。
…だがきっと零から言わせれば、此が正しいなどと言い切るのだろう。
元より、此の法律が出来上がった原因を俺は誰よりも深く知っている――――――。


「…だが、蜘蛛でないお前がそう何人もの蜘蛛の前でヒトを斬るのは好ましくない。…ましてや女」

「…………」

「奴らの恨みを買えばまた次いつ、強淫の目的で狙われるかも分からない」

「構わない」

「―――…」



構わない…? また女は凛として俺に言いきった。

―――本当に綺麗な顔をしている。 また何度目になるか、…見とれそうになった。

肺に入れた煙を、なるべく少女の方へ行かぬように右に吐き出した。
…ゆらりと天井に上がるその煙を、少女のうつろな色違いの瞳が見上げる。



「………殺してくれれば良かったのに」





  ―――…、 何?





「何故私を助けた」

「…必死に抵抗している姿を見れば、助けるのは当然だろ…」

「………犯されて殺されるなら戦って殺された方が良いと思っただけだ…」

「―――……」

「貴様のせいで死に損ねた」








熱のない瞳が、床に伏す。


それが酷く痛々しく、  俺の胸の中で悲鳴を上げている様に見えた――――――…














きっと、似ていたからなのだろう…