哀しいという感情は、あまり知らなかった





どちらかと言えば淋しいという意味の方が分かり易い、

だが言葉にすると全くもって 此の胸の“本当”には程遠かった







空虚 という痛みを 

私は何よりも怖れていたんだ







だけど君と居たあの時間には 1度たりともそれが無かった




君の側にいたいと思っていた理由は きっとそれだと思う……













【008:Moment when the noise resounds】











本当に1日中…空気の重たい日だった。
火を点ける煙草の先が重たく、やけに揺れて見えるのはそのせいだろう…
事務室の窓から暗いクイーンを見上げる。
……頭の中に赤い涙が飛ぶ雑音が流れた。


何度も何度も、強く肺にニコチンを送った……









1ヶ月に2,3度ほど…チーム内の“リーダー会議”を設けている。

蜘蛛という組織は、基本が13人構成。
そしてその中でまた、役職が分けられているのが普通だ。

リーダー(団長)、副リーダー(副団長)、まずこの2役が組織の頭に付く。
そしてその下に
コマンダー(特攻役)、インスペクター(監察)、エイダー(助役)、インフォマー(情報収集役)
この4役が付くのが基本形。チームによっては3役だったり5役だったりもあるが。

特攻役とはつまり攻撃陣の意味であり、主に蜘蛛と対峙する際に攻撃の要となる要員を表す。
海神界羅をリーダーに、俺の言う事を聞かない気丈な女と、いつも穏やかでとても攻撃陣の要とは思えぬ男の、3人で構成。

監察は、蜘蛛の“糸”を探り奴らの行動を把握し、時に現場へ直接乗り込むもっとも危険な役を云う。
瀬良勇午をリーダーに、俺の親友であるカズと、それから見た目は派手だが頭の良い女の、3人で構成。

そして助役とは、リーダー・副リーダー・特攻・監察、それぞれの団員を仕事に合わせてサポートに付く役。
俺と同齢の気の利く女をリーダーに、茶入れが趣味の葉哉と、界羅の妹の海神宇羅の、3人で構成。

主に現場で動くのはこのメンバーだ。

そしてインフォマー。…組織によってはコレを欠いているチームが多い。
相当の頭脳を要する役故に、アングラに堕ちる理由を持つ様な輩が滅多に居ないからだ。
運良く俺のまとめる6番街19地区の蜂には存在しているが、
…変わり者だ。1日中薄っぺらいノートPCを相手に独り言を言える奴が務めている。

それからもう1人…団員がいるが。
コイツは居ないにも等しいほど、この事務室に顔を出してこない男。
―――説明に欠けると言われてもこれ以上の説明のしようがない、そんな団員もいる…。


リーダーは俺、そして副リーダーが…   この組織で俺のことを最も嫌っている、冷酷な男。



これが、SOLDDIA 6番街19地区の蜂  尋常並外れた連中ばかりの、組織。






時計が19時を示すよりも早く、副リーダー含め各役職の頭を務める4人は事務室に集まった。
それまでに4本の煙草を押し潰した俺は、ようやく今日の空気から違和感を忘れられた。
…会議は、別にリーダー以外が聞いては拙いような話をするわけでも無い故に
事務室の隅の方に相変わらず葉哉も宇羅もいる。

宇羅はこのパルプに自室を構えておらず、界羅と共に別の場所に部屋を借りて住んでいる。
1人で帰すのも危険だ、リーダー会議が終わってから界羅と共に帰させた方が良い。
本人もそれを分かっていて、椅子には座らず少し離れた床で直に膝を抱え、
葉哉が入れたのであろう紅茶を啜りながら会議を聞いていた…。



「珍しいね、勇午君が会議の頭から居るとは」

「悪いすか」

「いや?ようやく心構えが出来てきたのかなと」

「んなモン毛頭ねーよ」


頭としての心構えが無いのは困る。俺はそう思いながら鼻で溜息を付いたが、
それが勇午の“見栄”だというのも何となく分かっている。心配はしていない。
「心構えが出来たのか」「ハイできました」などと言える性格じゃないからな。

しかしこのプライドの高い者同士の、当たり障りの無いとはとても言い難い会話。
会議前からいちいち空気を歪める要因になるのは必須だ…
それを分かって俺は、あえて何も言わずにさっさと開始を切り出した。


「勤務御苦労、リーダー会議を始める」


黒のテーブルを挟んで対面式に置かれたソファ。
右に副リーダー、特攻のリーダー、
左に監察のリーダー、助役のリーダー。
そして上座のソファに俺。 計5人。

ピリ、と、一瞬だけ… 面倒くさい視線のぶつかり合いを済ませた…。



「抱えていた5件の蜘蛛の調査報告から」


ファイルされている書類に目を落としながら話す。
しんと静まった部屋に響く自分の声は、例え囁き声であったとしても
この部屋の全てに聞こえるだろうと思った。否、自分の声でなくとも…だ。


「第2塔付近の蜘蛛は4日前に、第14塔付近の蜘蛛は昨日、御上に引き渡した。
 それから本日、第6中央塔付近の蜘蛛をカズの監察の元撃落としに成功。
 此については御上に連絡済みだ、日が変わるまでには引き取りに来る。
 ―――死傷人数は17人、内1人死亡」


1人か。 と、…小さく呟く声がする。 やはり、聞こえた。
勿論誰の声か分かっている、だが俺は何も言わなかった…。


「此以外に付け足し情報があったら報告を」

「第7塔付近の蜘蛛に御上から警戒令が出てただろ?」

「……ああ」



やる気なんざ無いと言った男が、誰よりも早く口を開く。
…とても目上に報告をする体勢ではないが、きちんと俺の目を見て話す。
…此奴のこういう姿勢が、リーダーに任命する理由だった。


「ヒデさんと別れた後捜査に出たんだが、妙な動きしてたぜ」

「…話せ」

「アレは恐らく、違う組織の蜘蛛同士の情報の遣り取り、ヤクの引き渡しでもなかった」

「………」

「ひでぇ警戒態勢だったんで近寄れなかったが、何か企んでやがったな」

「…分かった。その件、引き続きお前に任せる」

「………助役付けてくれねーんですか」

「…葉哉と相談で決めろ」


ちぇッ、と最後に舌打ちをして、勇午は視線を逸らした。
他に何かあるかと訊いたが、それ以外に声は上がらない。
それは当然「仕事が出来ていない」には繋がらないが、「滞っている」には値する。
昔は1週間で5,6件の蜘蛛を潰すのが茶飯事だったが、
奴らもずいぶんと賢くなった。―――1週間で3件のみ、か…


「界羅、昨日落とした蜘蛛の糸の後処理の報告を頼む」


書類に、済んだ仕事のチェックを入れる。
ボールペンが紙を引っ掻く音さえもが、攻撃的にも部屋に響いた。


「…はい。連中の証言場所以外からも案の定、ヤクは見つかりました。
 此はほぼ隈無く撤去し御上に引き渡しました、問題ないと思います」

「御苦労、他には」

「……その他にも問題・異常・残り香もありませんでした。……ただ、―――」

「…、」


界羅が続けて何を言うかすぐに分かった。
口が次の言葉を形取った瞬間に、俺はそれを左手で制す。
…刀で刺し殺されていた、あの死体の話だ。

それは、未だ今は要らない。


「………良いのですか」

「良い」



 もう、犯人の目星はついている―――…


「んだよ、…リーダーだけの極秘話か」

「………」

「ちゃんと報告して貰わねーと俺等の身が危険なんじゃねーんすか」


足を組み、頭の後ろに両手を当てて勇午がつまらなそうな顔をした。
否、つまらないのであろう… 何のためのリーダー会議だよ、と言いたげだ。
確かに勇午の言う通りだが―――


「今はまだ話せない。この件は事が進んでからまた俺から直に話―――」

「何の為のリーダー会議だ」

「…………」


今度は鋭く、切り込むような声。
元よりしんと静まっていた部屋に、氷の刃が刺したように更に静けさが立った気がした。

右前方。 ―――俺は目線だけでそちらに返事をする。


「…蜘蛛を潰して死人の数は僅か1体、会議中に理解不能な会話、……相変わらず甘い野郎だ」


その視線にさえ更に言葉をぶつけてきた。
今日は何時も以上に俺に対しての不満が多いそうだ… 


「そんな考えで蜂の頭を務めている奴の気が知れない」


紺碧の長髪を1本に束ねた、身長の高い男。
常に俺に向ける視線は“反”の姿勢の意味が込められていて、
おそらくは1度たりとも俺のやり方に賛成した事は無い…と思う。

チーム副リーダーの 黒綺零(クロキ レイ)。
蜘蛛の始末は勿論、チームのメンバーが欠けるに事さえも感情を動かさない男。
…強いて言うならば“俺と正反対”の人間。 蜘蛛の始末=殺し、だと言う…。


「零、…無駄に死体を増やすのが俺達の仕事ではない、蜘蛛を御上へ引き渡し服役させるのが目的だ」

「………」

「…それから、確かでない情報はかえってチームの混乱を招く。この件は先が見えてから直々に報告する」

「死体を増やすのが仕事ではない?―――…笑わせるな」



零はゆっくりと足を組み、切れ長の目でギラリと俺を強く睨んだ。
青い炎でも灯りそうな目だった…。 血の気が多いと言うよりも、情の無い目。


「『暗殺許可特殊警察』の意味を貴様は分かっているのか」

「………」

「このアングラで腐った下賤の罪人共が、御上へ渡り服役し、善人になるとでも思っているのか」



幸せな奴め。零が俺にそう言い放つと、また部屋の静けさが増した。
―――遠くで宇羅と葉哉が息を殺しているのを、感じる…。


「…全ての蜘蛛が改善に至るとは思っていない、だが」

「貴様は4年もこのアングラにいながら、何故御上が俺達を『暗殺許可特殊警察』と呼ぶか理解出来ないのか」

「―――…」

「御上が増加に歯止めの掛からぬ蜘蛛の処罰を持て余した挙げ句、構成されたのが“俺達”だ」

「………ああ」

「つまり俺達は御上から、蜘蛛を“コロセ”と命じられているのだと。何時になったら貴様は理解出来るのだ」

「…………」



貴様は甘い、そう吐き捨てて零が立ち上がる。
ブーツの踵が、部屋中に鞭を撃つような音を立てた…

分かっている。…そんなもの、蜂になった時から知っていた。
俺にの腕には“殺しの技術”が備わっている、故にこの職を言い渡された。
…分かっている、知っている。―――…何故リーダーにまで任命されたのかだって… 知っている。

静かに俺は目を閉じた。
―――零の視線は稀に… 蜘蛛以上に、殺戮的な目をしている。
敵にも、味方にも、全ての存在に対して。それを哀しいと思った…
このチームの人間の事さえも仲間として感じていないのだから。


「…何処へ行くのですか」

「居るだけ無駄だ…終わらせて貰う」

「…………」



コツ、コツ、と、歩幅の広い足音が部屋中に響く。
そしてそれが一度止まった。 俺はそれに合わせて瞼を開く。



「“殺さずの鬼”…、ご立派な異名だな」

「―――…」


「蜘蛛共にことごとく、無礼(なめ)られているのがよく解る」


そう言えば俺が怒るとでも思っているのか。
俺は殺しも、殺さずも、どちらも誇りなどと思ったことは無い……。

ただもう2度と―――  殺しなどしたく無いんだ。
あんな血の海を 血の雨を、 この手で―――……



「オイ」


…座ってそれを聞いていた1人の男の瞳孔が大きく見開いた。
当然俺は、その声もその目も見逃さなかった―――。 …マズイな。


「―――……」


「未だ会議中だぜ」

「訊く事も話す事も何も無いと言っているんだ」

「副リーダーなら黙って座って話聞ーてろよ」

「無意味だ」

「……ッハ。餓鬼だな、アンタ」

「―――ッ」



  ジャキッ―――!!!!!!!!




躊躇いの時間は感じられなかった。
勢いよく勇午のリボルバー、零のオートマグ、  双方の牙が互いの額の位置で構えられ制止する。



「………」

「…………」



しん……と、殺気同士がぶつかり冷たい空気にビリビリと響く…。


闘志を剥き出しにした2人の覇気は、凡そ寒気も炎さえも…引き起こせそうだ。
平気でいられるのは恐らくこのリーダー会議に顔を揃えるメンバーくらいのものだろう、
…事務室の隅にいる葉哉と宇羅の2人が心配になった。


数十秒、瞳孔の開いた攻撃的な顔で2人は睨み合っている。
……殺し合いをするわけがないとは分かっているが、 …終わりも見えない。



「―――銃を下げろ。……2人共だ」



立ち上がらず… 姿勢も変えず、 俺は静かに2人の間に投げかける。
…微動だにしない静止画は、まだ続いた…。




「聞こえてるか。……2人とも、銃を下げろ」




反応は無い。 …良い、度胸だ。

……俺が1番怒りを抑えられないのがどんな時か… お前等は知らない訳じゃねェだろうが。






「――― 下げろ…」






ピクッ、と、2人の目が同時に、一瞬だけ… 俺を警戒した…。

…もう一言必要なのならば、左に掛け置いた刀に手を伸ばしてやろうか。
俺は目だけでそう言った。…殺気を読むのが上手い連中だ、同時に顎に力が入ったのが見える。


「…………」

「………チッ」



また舌打ちをしたのは、勇午。
2人の腕がゆっくりと下がるのを見守り、完璧にその武器がホルダーに収まるのを待った。
それまでずっと俺は、左の自分の牙に手を伸ばす準備を止めやしない。

界羅は冷酷な視線でその2人を見ていた。
隙あらば、自分もそのどちらかに加勢しそうな目で。
…もう1人、助役のリーダーである女は… 未だに興味も無さそうに目を細めている。


「…零、俺のやり方が甘いのは認めよう。だが、1つ訊く」

「………」

「俺達蜂が、“廃棄物処理組織”と呼ばれ罵られている事も…当然知っているだろう?」

「……それがどうした」

「お前はその名を誇りに思うのか…」

「―――………」


誇りの為だけに闘って生きてゆけるのかと訊かれたら、当然それはNOだ。
だが…そう呼ばれているのを知っていながらでもお前は、喜んで暗殺の仕事をしていられるのか?
…ゆっくりと零は振り返る。1本に束ねられている長い髪が無風で揺れた。


「では貴様は、その名に反したいだけが為に“殺さずの鬼”をやっていると言うのか」

「…それは違う」

「ならば俺とて同じだ。罵られようがどう呼ばれようが関係無い、誇りよりも先に蜂は蜂の仕事をするまでだ」

「………」

「廃棄物を処理している事さえ、事実だ」



その言葉に、ずっと黙っていた女がとうとう、はぁ、と声に出して溜息を付く。
―――興味なさそうに黙っていた彼女だがとうとう口を割った。


「聴いていて気分が悪いわね。…座りなさい、零」

「―――……」

「聞こえてるかしら?…子供じゃないなら、座りなさい」

「餓鬼で結構だ。―――もう話す事も訊く事も無い、帰らせて貰う」

「零、いい加減に」

「薙、良い」

「ヒデ、貴方も…」



サッと、冷酷な男の背中が遠退いていく。
静かな部屋に相変わらずブーツの音を強く響かせ、葉哉と宇羅の横を通り過ぎた。
宇羅は零の存在が苦手だ、と…1度だけ俺に零した事がある。
今も抱えた膝に顔を俯けさせ、通り過ぎた零の影を見ようともしなかった…。


「―――そうだな。…最後に1つだけ、所望させて貰おうか」

「………」



ドアに手を触れた瞬間…最後に零が、また俺を強く睨んだ表情で振り返る。



「…メンバーの変更要請を出させて貰う。この2ヶ月、女の餓鬼がチーム内に存(い)て非常に目障りだ」



―――またわざわざ、当人の目の前でそういう事を言ってくれる。
部屋の隅で俯いていたはずの顔がビクッ、と上がり、恐怖の眼差しで零を見上げた。
逆に、俺から見て右のソファに座っていた男が――― ギッ、と夜叉のような表情をする。

彼が立ち上がる前に、事務室のドアが小さな音で閉まった。
…小さく感じたのは、先程までの零の足音のせいだろう―――


「テメェだって餓鬼だろーが」


ドアが閉まってから勇午が、テーブルに乱暴に足を投げ出し吐き出す。
フォローのつもりではないとは思うが…その意見は、有り難い。
ふぅ、と俺はまた鼻で溜息を付いた…。どうしようもない連中ばかりだ、まったく。


「………界羅、」

「………」

「気にしなくて良い」

「……気にしていませんよ…」

「…………」


どこがだ。と突っ込みを入れてやりたかったが、「そうか、」とだけ返事をした。


「ならばそんな顔をするな。…宇羅が可哀想だ」

「…………」



キュ、と、綺麗な顔の唇に力が入ったのが目に入る。
怒りで震えだしそうな腕を抑えながら、界羅はゆっくりと立ち上がった…。
そして部屋の隅で困ったように俯く妹の方へと、少し大股で向かう。
同じミルクティー色の髪が揃うと、宇羅はようやくその顔を上げた…



「本当に甘いわね…ヒデは」


分かってる、だがコレが俺のやり方だ。
そう心の中で言いつつ、立ち上がって俺の隣へ来た女を見る。
…飴色の綺麗なパーマ掛かった髪と、眼鏡と薄桃色の瞳、落ち着いた風格。

華々見薙(カガミ ナギ)、俺と同じ歳であり、チームの誰からも頼られている女性だ。
…彼女は終始温厚に笑いながら、特に、俺も零も平等にしか責める気を見せなかった。
否、責めてなど居ない、彼女は常にそうだ。…そこが薙の良いところ。


「…こんな男には付いてこれないか」

「……いいえ?」


薄く笑いながら、彼女はそれ以上何も言わない。
俺、零、薙の3人が…事実上、組織の柱となっているのがこのチームの現状であった。
年齢も26・27・26と近く、何か事を決める際に中心となるのはこのメンバーだ。
俺と零がぶつかる度に仲裁と中立に立つのが彼女。―――これまで幾度助けられたか…


「でも宇羅に関しては、私も未だ少し心配しているわ」


小声。…静まっていた部屋から緊張の糸が緩んだお陰で、
今はこの程度の声量ならば部屋の隅の界羅と宇羅には聞こえないだろう…


「…宇羅の組織入りを承諾したのは何も、同情じゃない。…彼女もきちんと蜂としての役目を果たせている」

「―――…そうね、でも零の言い分もあるわ。…宇羅はまだあまりにも仕事に対して恐怖心を残しすぎてる」

「……分かってる」


横目で界羅と宇羅の姿を盗み見ながら、俺は立ち上がった。

会議は終わりだ。そう告げて、左で手刀を握る。
…本当はまだ議題に出しておきたい事があったのだが、こうなっては何もかも無意味だ。
先延ばし―――  蜘蛛が賢くなると同時に、蜂の質が逆に落ちている。

此も事実なのかも知れないな……



「―――、薙」

「何?」

「悪い、まだ少し付き合って貰えるか」

「……珍しいわね。女性に残業を頼むの?」

「…お前が1番詳しいからな」



界羅と宇羅が事務室から出て、2人、家の方へと帰ってゆく。
それに反して勇午と葉哉はパルプの階段を上がり、事務室の上に構える自室へと戻った。

最後に薙も、勇午らを追うようにパルプの上の自室へ戻ろうとしていた…が、
それを引き留め、俺は彼女を自室へ呼んだ。
仕事後に女性を招くなど端から見れば疚しい事の様にしか思えぬが、
薙は何ら疑いなくそれを“仕事”と判断して俺に付いてきてくれる。

それには当然、理由もある…
薙がそれほどまでに俺を信頼してくれる、理由が。




外に設置されているこの階段を上がる度に、アングラの空気を吸う事になるのには慣れた。
…相変わらず重く、異臭の持つ毒性は日々重度を増しているように感じる…。
自室のドアを開けると、静かな部屋に… まだ、小さな寝息が聞こえていた。
それに直ぐに気付き、薙は不可解な表情をする。


「…何?誰か居るの?」

「ああ…診てやって欲しい」

「―――……!、驚いた。どうしたのよ…」



その息が壁際のベッドの上から聞こえるのを確認し、彼女はそれを目に留めた。
―――暗い紅の髪を持つ見知らぬ少女が、静かに眠っている…。


「…他地区の蜂?」

「いや…恐らく、ヘヴンの人間だ」

「……!、堕ちてきた人間?」

「詳しくは解らない、ずっと気を失ったままなんでな」

「……そう…呼吸は?」

「最初は拒否反応が出ていたが今は大分落ち着いてきてる…」

「堕ちてきた人間というと…罪人の可能性が高いわね」

「………ああ…」


まだ20代前半くらいみたいだけど…と薙は少女の顔を見て呟く。
…そうだろうか?…確かに顔だけ見ているとそう見えるが、
やはり体型が16,7の少女にしか見えないんだが。

そして薙は直ぐに気付いた。
…少女の肩に白い布が巻き付けられているのを。


「…怪我もしてるのね?」

「ああ……葉哉が処置してくれた、が…」

「……それの経過も見て欲しい、って言うのね?」



それで薙を連れてきた。…彼女はそう言う前に気付いてくれた。
―――本当によく出来た女だと思う。
薙はチーム内で最も医療に知識のあるメンバーだ。
葉哉なんかは彼女に治療の手立てを学んだ程である。


「……葉哉も上手くなったわね。…良くできてるわ」


掛かっていた薄い毛布を捲りながら、少女の身体の状態を確認している。
肉付きの薄いその身体は、女の薙から見てもやはり細いようだ。
「本当にヘヴンの人間?」と呟きながらその細い手首を1度だけ取った。
…そして最後に「容態は大丈夫」と言い切り、ゆっくりと毛布を元に戻す。


「……しかし相変わらず…ヒデは女の子に甘いわね」

「・・・・・・」

「拒否反応の状態を見ただけで、保護してあげたの?」


眼鏡を直しながら、俺を探るように…訊いてくる。
黙ってやり過ごそうとしたが、薙に此は通用しない。
スーツのジャケットをソファに放り煙草を抜き取り、俺は一瞬目を逸らした。


「………蜘蛛の集団強淫されかけていた」

「―――…」



そう言うと逆に、薙の眼鏡の奥の瞳がキュッ、と一瞬だけ大きくなった。
…哀しいビジョンが、過去の物なのかこれから先の物なのか、分からないくらいに目まぐるしく… 流れる。



「そ… “また”可哀想な女の子を、拾って来ちゃった訳ね」



……だから、そんな台詞を言わせたかったわけじゃ無いんだ…
俺はそう言う意味で目を閉じて、重く溜息を吐く。
それを見て薙はクスクスと小さく笑った。


「好きよ、ヒデのそういう優しさ」

「……」

「目が覚めたら早く御上と連絡取って、身元と罪歴の確認を取るのね」

「……そのつもりだ」

「何処かの女みたいに、「此処に居させて」なんて、言われないようにしなさいね」

「…………」


容態に何か心配なことがあったら夜中でも起こして良いわよ、と言い残し、
薙も自分の部屋へと戻っていった。…花の香水の香りも、置くように残していく。
彼女の部屋は、丁度俺の1階上。 鉄の階段を上る音が、ドア越しでも聞こえていた…



やがてまた、ベッドの上の少女の寝息の方が大きく、部屋に流れる。












俺は火を点け損ねた煙草を灰皿に投げ、疲れに負けてソファに沈んだ―――……