いつからだったろうか

私がこんなにも、弱くなったのは


いつからだっただろうか





多分、君に出会ってからだ   間違えないと思うよ





君の腕の中の温かさを知ってから、

何処へ行っても「寒い」と思ってしまうんだ







君の側じゃないと、眠れなくなった―――…












【004:Who love this emptiness?】














「悪い、少し状況が変わった。…例の死体、パルプまで持ち帰れるか」



界羅に連絡を告げると、直ぐに「了解です」と、例の落ち着いた声で返事をしてくれた。
恐ろしいほど聞き分けが良い部下であるが、逆にこれを「怖い」と思うこともある。
例えば俺が「殺せ」と言えば、それさえをも何も言わずに素直に受け入れるだろうし、
「死ね」と言えばどういう反応をするか―――。

勿論、俺の口からそんな言葉を言う日が来るなど、永遠に無いと分かっているが。



鼻で小さく溜息を付きながら右手の白銀の刀を鞘に収め、腕の中の少女を抱え直す。

正直あまり見た事のない、暗い紅色の…胸元までに掛かる長い髪。
ヘヴンの女らしく、それは見事と云う表現が最も相応しいほどに美しかった。
が、細く軟らかに見えるその髪には…所々に血がこびり付いて固まっている。

そして…刀を振り回すようには見えぬ細い身体。
その右肩からは惨いほどの打撲跡と、左腕に酷い流血がある。
両脚にも似た様な跡があり、正直これは歩行も困難であろうと思う。
…呼吸が上手くいかぬせいで顔色も悪い。

足は裸足。当然血塗れになっている。…此のアングラでは、裸足の者は断じて珍しくないけれどな…。


俺は、女の口に当てていたハンカチを歯で咬み切り、出血の酷い肩に当ててきつく巻いた。
その瞬間「う、」と…少女は小さく呻く。
完璧に意識を失っているわけではない―――か。
一体どういう精神力をしているんだ。あれだけ人を斬り呼吸の拒否反応を起こしていながら…

そう思ったその時、界羅の言葉とこの少女の先程の剣さばきが
ピンと音を立てて俺の頭の中で繋がった。



……。 なるほど…。



『現場付近に、死体が』
『ヒデ君に連絡するくらいの理由があると察して下さいよ』
『…この死体、蜘蛛に違いはないのですけれど。…死因が』


『 刀の様な物で、刺し殺されています 』




「―――……」



このアングラで主流の殺人武具と言ったら、凡そ90%は銃になる。
残りは火薬だの鈍器だのの低殺傷武器が多い。
…「刀傷」という怪我・死因を付けられるのは、正直この辺でなくとも俺しか存在しない。
“殺さずの鬼・浅霧秀兎”しか。

それで界羅は、刀で刺し殺されていた死体を見て直ぐに俺に連絡を寄越した。
“殺さずの鬼が蜘蛛を殺したのか。それほどの理由が存在する要因が、この蜘蛛にあったのか?”と。

しかし俺ではない。
俺は殺しという行いは拒絶しているし、ましてやその死体、昨日今日の話だろう…?
有り得ない。俺が妙な暗示にでも掛けられて狂ったというのならば考えてやっても良いが。


「コイツだ…」


間違えない。そう、確信した。

俺の名を聞いて失踪していった先程の組織の蜘蛛達、
そこから取り残され地面に伏している血だらけの男達―――
皆、つい先程此の少女に斬られた蜘蛛達だが。


全員、即死している―――。


…何という腕。この小柄な少女が、大の大人(それも薬で狂った男の大人)を
たった刀の一振りで制裁するとは――― やはりただの少女じゃないな…。


恐らく界羅が見つけたという、刀で刺し殺された死体も
この女に強淫目的で襲いかかった所を返り討ちされたに違いないだろう。
まずアングラを歩く上での女に、この軽装は有り得ない…。
薄い上質の絹で出来ている、黒の1枚の短いドレスワンピース、
その上脚に何も纏わず…靴も履かずの裸足ときた。
…こんな姿でアングラを歩けば、男達の恰好の餌食だ…


しかしこの服装を、何処かで見たことがある気もした―――… 何処だっただろうか…。



色々聞き出すことがあるな…
この刀のことも。

白銀の 美しい刀。
それを丁寧にゆっくりと自分の腰に差し、少女を抱きかかえると俺はパルプへと走った…








…軽い。抱きかかえた瞬間も走っている間も、印象はそればかり。
それからやはり綺麗だと思った。髪もだが。―――存在そのものが。
目を閉じているが、目鼻立ちの整った…大人の女の顔をしている。
それだけ見ていると少女というより、やはり“女性”…で良いような気がした。

では何故“少女”に見えたかと言われると…
やはり体型だろうか。細くてまだまだ…女というよりも、子供のような。

しかし其の綺麗な顔は真っ青だ。そして身体は赤く泣いている。
このまま放置すればいずれ真っ白に変わり呼吸を失うだろう…。


パルプに戻るとそのまま自室へ向かい、少女をベッドへ運んだ。

…パルプは、仕事の拠点となる“事務室”をビルの2階に構え、
その上の階にメンバー各々の部屋を携えている。
いや、勿論全員がこのビルに住んでいるわけでもない。
別の場所に住居を構え、事務室に出勤という形を取る者もいる。
パルプの上に住んでいるのは、俺や葉哉、勇午と他に数人…。

俺の自室は、事務室の2階上。鉄屑の地上からするとビルの4階に位置した。
リーダーなら部屋も最良の物を、など別にそう言う事はない。…広さはあるが。
元々生活に必要な物しか置かないせいで、ひどく殺風景な部屋だと自覚している。
むしろ狭い部屋の方が落ち着くんじゃないかと思う事の方が多い。


「―――…」


血塗れの身体を清潔なタオルで包んでから、ゆっくりとベッドに横たえてやる。
苦しそうだった呼吸が少しだけ和らいだ…力んでいた表情にも緩和が見られる。
ビルの中は外の空気よりも数十倍は清潔を保ってある… ヘヴンともそう変わらないはず。
これで呼吸もおそらくは心配ないはずだ… が、

応急処置で済ませていた少女の怪我をこのまま放置するわけにはいかなかった。
パルプを張っていたのが葉哉で丁度良かっったと思う、コイツは医療に多少の知識がある。
チームの中で医療の技術を持つ物はたったの4人。…こればかりは才と経験が物を言った。


当然、突如の頼みにも関わらず葉哉の治療の手だては見事なものだった。
「どうしたんですかこの子」とは、勿論怪訝そうな顔で聞かれはしたが。

とりあえず…少女のことは、何も言わないでおいた。
いや、未だ何も分かっていないからというのも正しい理由だが―――
「ヘヴンから来たらしい。空気に拒否反応が出て気絶している」とだけ、説明をしておいた。
不振と心配の入り交じった表情を浮かべながらも葉哉は、
「そうですか」とだけ言い、それ以上は何も探ってこない。…コイツの良い所だ。

少女の治療を頼み、俺は腰に差してあった白銀の刀を丁寧に…刀掛けに掛け置いた。




葉哉が少女を治療してくれている間に、俺はようやく御上への連絡を取った。
…カズが見張っていてくれている、先程勇午らと沈めた蜘蛛の処理の依頼だ。
御上の牢へと搬送させ、一方的な裁判で懲役を決められる。
―――理不尽な言い渡されが多いと云うが、そこまでは蜂の関与する所ではない…
罪さえ償えるのならば、それで充分だ。


葉哉が治療を終えて少女をベッドに再度寝かせ直すと
俺は礼を言い、とりあえず…彼女がきちんと呼吸が出来ているのを確認する。
すぅ…と、少女の緩く開いた唇から、深い眠りの息が漏れた……。




「…葉哉、」

「あ、ハイ」



治療を終えると葉哉は、俺が応急処置で少女の肩に巻いていたハンカチを丸め、
血で汚れた薄いゴム手袋のままで俺の部屋を出ようとした。


「宇羅と界羅がじきに戻る、事務室に来たら教えてくれ」

「…了解です」


腕を器用に使い、血だらけの手でドアノブに触れぬよう、葉哉が出ていく。
……ふぅ、と…ベッドの横で俺は1度小さく溜息を付いた。

煙草が吸いたい。
…が、怪我人が眠る横で煙を吹かす程、気の利かない男でもない…
黒いソファに座ったまま、俺はベッドの少女ではなく、彼女が振っていた白銀の刀を見やった。

其奴に見とれながら、少女をどうするか…考えることにする。
…まずは界羅と宇羅が持ち帰ってくる予定の蜘蛛の死体。
それを見てからでないと話は何も進まないのだが。

その蜘蛛を殺したのが 此の少女とあの刀だとしたら。
……いや、正直信じがたいが… だがしかし俺は目の前で見ていた。
―――此の少女が繰り出す白銀の刀の一閃、その一瞬にして…蜘蛛がこの世の者でなくなったのを。


…まず当然、素人が振る太刀では無かった。
間違えなくこの少女は刀の扱いに長けている、それもアッサリと人を亡き者に出来る尋常でない腕だ。
ヘヴンの人間でありながら、凡庸の少女でない事は明か。…そして 刀―――


白銀の刀…


美しい。
柄は真紅、鍔は黄金、鞘は純白、そして刀身は白銀―――。
まず高価だ。そして―――この世に2つとない代物であろう事も間違えない。

果たしてあの刀、“此の少女の物”で間違えないのだろうか。
…何処かで奪ってきた・あるいは盗んできた…そういった物のほうがまだ納得がいく…


……だがもし、この少女自身の刀、なのだとしたら……



「…………」



視線が離れなかった。

刀掛けに掛かる、 その、美しい鍔の装飾。




「茜鳳凰…」







―――間違えなく、 俺の刀と同じ        茜居家の刀……









正常に近い空気をしっかりと胸に吸い込み、吐き出す呼吸音が…殺風景の部屋に響く。


聞き出す事が大量にあるな。…ヘヴンから来た者だからと言ってそう甘く扱うわけにもいかない。
仮にもこのアングラで、蜘蛛を既に数匹死傷させている。―――自己防衛であったとしても、だ。

…じきに目も覚めるであろう。
そう思いながら、葉哉に頼んでおいた事も忘れて事務所に戻り、ようやく一服にありついた。

―――最低1時間に1本は吸わないと落ち着かない体質だ。
これでもこの数年で、頻度は大分下がった方なのだがな…。






事務室の天井に煙が充満する。
チリチリと燃える赤い炎が、じっと… 薄暗い部屋で、何か予感するように 震えた…