忘れることは逃げることだ

だが、受け入れるには余りにも残酷







君がいつも哀しそうな目をしているのは、



何かに縛られているからだと分かっていた









でも、その鎖を解くのが此の手だとは―――…    思えなかった










それは、私が未だ弱かったからだと思う…












【007:I look up at the sky that doesn't reach】














「あ…ヒデさん、界羅さんと宇羅ちゃん戻りましたよ」





事務室でまた茶を入れていた葉哉が、窓から下を覗き込み俺に告げる。

……早かったな。
短くなった煙草を最後に思いっきり深く吸い込み、
煙を吹きながらそいつを灰皿に強く押し付けた。

錆びた階段を上ってくる音。そして、事務室のドアが薄く開く。
視線を煙草からそちらへ移すと…
ミルクティー色の髪に、エメラルドグリーンの瞳に睫毛の長い綺麗な顔立ちの男と…
その直ぐ後ろに、兄の腕に隠れるようにして立つ、同じ髪色のまだ顔立ちの幼い少女がいた。


「只今戻りました」

「只今戻りました、ヒデさん」


2人、同時に浅く頭を下げる。
―――俺はすこし歩幅を大にして、2人に寄った。


「御苦労。……宇羅、」

「!、あ、はい」

「……大丈夫か」

「……えっ…あ……ハイ、だ、大丈夫です」

「………」

「……………あの…えと…」

「……ヒデ君、」



心配しすぎです、と言わんばかりの表情で…界羅は唇を薄く笑わせる。
…やはり、カズにフェミニストと笑われるのも妥当なのだろうな、俺は。
まだ勤務2ヶ月という経験の浅さを心配しているのもあるが、確かに…
そうでなくても今の俺は、この子が蜂の仕事をしているという事自体が気がかりで仕方ない。


「………いや、大丈夫なら良い」

「心配要りませんよ。…私が一緒に居ましたから」

「そうだな」



…宇羅は申し訳なさそうに、兄とそっくりな顔で俺に笑った。

宇羅が初めて―――此のアングラに来て、蜘蛛の死体を目の当たりにした時。
彼女は、その地獄絵に精神的な衝撃を受け嘔吐を引き起こした。
人間として当然の反応であり、むしろ平気な顔をする奴の方がどうかしていると思う。
しかし…宇羅の精神的弱さもまた、あまりにもアングラには不向きだった。
食事も出来なくなり、肉体的にも限界に追い詰められてた時期があったくらいだ。
そんな子が、また死体を目の当たりにすることになったとなると… 心配をして当然だろう?

が、界羅は1度宇羅の頭に軽く手を乗せ、彼女の顔を確認する。
―――…少女はこくりと、しっかり1度頷いた…。


“死体は見慣れた”、か…


「分かった、悪かった。…もうお前も蜂の団員だ…」

「…い、いえ…、あ、はい」

「もう休んで良いぞ…今日は終わりだ。宇羅は此処で待っていてくれ」

「はい」

「界羅、もう少し付き合ってくれ。例の死体は?」

「地下の12番庫へ運びました」

「状況も聞きたい、一緒に来てくれ」

「分かりました」

「―――!、あ、あの、私も行きま…」


「宇羅」

「……、」

「此処で待っていなさい、ヒデ君の命令です」


「………はい」


しょぼん、と、エメラルドグリーンの丸い瞳が淋しそうにする。
だがその姿に後ろから、葉哉が「紅茶入れようか?」と、優しく声を掛けた。
それを見送って俺は界羅と共に事務室を出る。
……あの光景だけ見ると、2人共にとても蜂団員には思えないな…




事務室から出て、錆びた鉄の階段を下って行く。
…パルプの地下には、死体を安置する倉庫が備わっている…

収容される遺体は勿論、主に蜘蛛。
火葬はヘヴンで行われるのが通常だ、つまり、御上へ搬送される死体を預かっている状態だ。

だが時には――― 昨日まで隣を歩いていた、蜂である仲間の身体を入れる地獄絵図も… 当然、ある。



「死体の状態は」

「見ていただければ分かりますが…時間はさほど、経っていませんでした」

「……外傷の数は」

「―――……驚きますよ」

「…………」

「心臓、たったの“1カ所”です」



何となく予想は付いていた。だが、何も言わないでおいた。
界羅はベルトに付いていた鍵を外すと、12番の死体安置庫の扉の前で止まる。

死体安置庫の1部屋の広さは、およそ3平方メートルほどの狭さ。
中央に骨組みがむき出しの鉄のベッドがあり、その上に、
首から上を白の布で、何十にも綺麗に巻かれている死体が横たわっていた…

部屋には防臭と腐敗を遅らせるスモークが通気口から流れるようになっていて、
其れを天国か地獄のように見えるという奴もいるし、“幻想的”などと狂ったことを言う奴もいる。
俺としてはあながち…死体が寝ていると言うより、等身大の人形が寝ているように見えた。

俺はこの部屋の匂いが好きではない…

否、好きだという輩など滅多にいないであろうが、 特に―――
俺はこの部屋への出入りを1番嫌っている。 出来ることなら、死体などとは対面したくない…


「相変わらず丁寧だな、お前の白布(シラヌノ)処理は…」

「ヒデ君の精神に倣っているだけですよ」

「俺はこの作業はしない」

「そうですね、殺しませんからね」

「………」

「私はいつも自己主義ですが、ヒデ君のその精神は好きですよ」


……横目で界羅を流すと、俺はゆっくりと死体の胸元に触れた。
心臓を…刀の一突きで射抜かれた切り傷。笹の葉の様な細さだった。

界羅の言う通り、外傷はこの1つのみ。
ヤクまみれの乾いた真っ黒な血が衣類と皮膚にこびり付き、
その刀の切り口の凄まじさを物語っている…


「やはり、刀を扱う者としては…この傷を見ただけで、何か分かるのですか」

「―――……ああ…多少はな…」

「…そうですか。……何者の仕業でしょうね」


俺の中で答えは既に、確定していた。
間違えない。―――あの女の刀だ… あの女の仕業だ。

あの白銀の刀を操った、あの女だ―――…

あれほどの良刀だ、女の力でも簡単に身体を突き抜けるほどの攻撃は可能であろう。
そして先程の剣さばき、あの腕… 正直、見とれた。
美しいほどに無駄のない、隙の無い剣術だった…

とても女、 それも少女とは…思えない……。


「何か、分かりましたか」

「……相当の剣の使い手だ」

「………。何故?」


何故、そう言いきれるのですか?
そう言う意味の質問だと分かると、俺は何かしくじったことを言ったかと思った。
…まだ葉哉以外、あの少女のことは誰も知らないのだ。…その事を頭に置き忘れそうになる。


「…分かるだろ?恐ろしいほど正確に心臓を貫いている。…それもたった1度でだ」


……成る程とは言わず、そうですか、と界羅は呟くだけ。
そして自分が運んできた死体をマジマジと見つめてから、チラリと俺に目線を寄越した。


「……ヒデ君は出来ますか?」


―――。
確信めいた質問をされた気がして、ブツッ、と、一瞬視界が途切れる。
脳裏に、鮮血が滴る映像がフラッシュの様に点滅して全神経に流れるような感覚がする。


ヒデ君はできますか?



1度で正確に心臓を貫き、殺せるか?  と?



「………俺は殺さないと言っているだろうが…」

「あくまで仮にですよ。……ヒデ君は此奴を殺した者の様に、外傷1つで人を殺せますか?」


「―――、」





   
『   カ…  ン    …!!!    』





―――防臭と防腐のスモークが肺に入り、体内を巡っている。
…やはりこの部屋は苦手だ。……脳味噌がどうかしてくる。
煙草の煙だったら幾らでも吸っていられるんだがな……



「…ヒデ君、」


界羅の声が、ぐらつく脳味噌に響いた。




『 ヒデ、』






                ドクンッ            

                                       ドクンッ



                         
 … ン …


                                     カ … … !!!





                      ドクンッ!!!!








「―――…ああ… 殺せるよ」





「…………」



浅く深呼吸をして、俺は逃げるように死体に背を翻した。
何から逃げるのか…自分でも分かるようで、分からない。
この死体から逃げたのか、部屋の煙から逃げたのか、それとも

―――あの過去から逃げたのか。


何も言わずにその3平方メートルの部屋を出る。
しばらく界羅の視線が、そんな俺の背を鋭く刺しているのが分かった…。
が、それから何も言わずに扉に鍵を閉め、俺に付いて歩いてくる。



墜落してゆく身体、零れていく腕、消えてゆく光
失われてゆく血と温度―――


まだ何1つとして忘れてなどいない

忘れることも 夢に見ぬ事も   まだ許されない…








1度外に出ると、アングラの淀んだ空気さえもが清浄に思えた。
胸ポケットから煙草を取り出し、口元でジッポを鳴らす…


「話の続きですけれど」

「…………」

「…ヒデ君と同等の腕を持つ者が、この6番街付近に存在している、と…考えて良いのですね」

「―――……」


カン、カン、と、錆びた鉄の階段を戻ってゆく。
事務室のドアに辿り着く前に、界羅は俺の背を呼び止めた。
本当に…冷静沈着な男だ。 人をよく見ている…


「―――充分に、あり得る」

「………敵でしょうか。それとも、蜘蛛を殺したと見ると…」

「敵でも味方でもない」

「………」


「ただの、部外者だ」





事務室のドアを押すと、葉哉、宇羅と共に… もう1人が増えていた。

勇午。


「お前、もう戻ってきたのか…ちゃんと勤務しろと言っ」

「ふざけんなよ誰がサボりだ。19時のリーダー会議に遅れるなっつったのはアンタだろ」

「―――、」




時刻は、18時半を過ぎていた……






「………」




頭の回転が、遅い。

煙草の味がなかなか舌に染み込んでくれなかった……














あの日のように