逃げる場所を探していたのだ
それに気付いたのは、君に出会ってからだった
そして「それ」に気付いたのは、君を失ってからだ
いつだって私は自分を悲運とは思わなかった
だから哀れむ君の目を見た時 始めて知った
同情というものが、 温かい感情であったことを
【002:An unsheathed sword】
「しかしヒデさんは、茜居の話になると本当に敏感ですね」
雑用係でもないのに自動的にコーヒーを入れて自動的に俺に渡すクセ。
葉哉はそれを自覚してもいないし「俺に出来るのはこれくらいですからね」と言って
自分の仕事とでも言いたげにこなしやがる。
そんなものもっと若い連中にやらせて、自分はもう少しマトモな他の仕事をしろ。
いつも思うが、…やはり何も言わない。
上司だろうが部下だろうが仲間であれば何でも良い。
茶を入れるのが誰の役目だとか、どうでも良いんだ。
受け取ったコーヒーをすすりながら、俺は静かに溜息をついた。
まず葉哉の入れるコーヒーは薄い。
…正直、飲んでも飲んでも満足しないというのが1番の感想だ。
「…何の話ですか、跡継ぎ、って」
「………」
「黙りですか」
悔しくも無く乾いた声で笑う葉哉は、自分のコーヒーカップにもその
効き目の薄いカフェインを入れ、窓から覗くクイーンを見上げた…。
茜居(アカネイ)。
字面からして美しいその家は、上の世界の上流階級者の家の中でも、
更に上流の家の名で… 同じ上流階級者であれば知らぬ者は居ない程の名だ。
嘗ては天皇家に遣えた過去もあり、時代名を遡ればおそらくは
恐ろしいほど古い時代から存在する家であろう。2千年は軽いと思われる。
嘗て其の先祖が、茜色の着物を身に纏い戦に赴く姿があったと云われ、
その働きがまた天皇に高く評価されたことから官位を与えられ、其れを“茜居”と云ったそうだ。
勇猛で勇ましく知も有る、それは優秀な武人であったと聞く。
やがてそのままその官位が彼の名へと転じてゆき、今現在の「茜居」という家になったと云うが
…此は何処までが真実かは分からない。 だが本当だとしたら、立派な物だと思う。
何故ならば、其れから二千という時と時代が流れようとも 茜居という家は未だ存在し、
天皇の側近では無くなったものの―――…現在でも、政府(御上)に関わって生きているのだ。
簡単な言葉と数秒の説明で済ませられても、断じて簡単な話では無い…。
そして俺にとって、その茜居という家は… 若干、特別な存在だった。
俺自身が直接関わりがある訳では無いのだが…
両親が、その茜居の家に仕えていた―――。
俺の両親は、上流階級でも下流階級でもどちらでも無い…上流階級者に仕える中流階級の者で、
2人は茜居の家に代々仕える家の者同士であり互いに茜居家に忠誠を誓う者であった…。
その間に生まれたのが俺。
いわゆる、窯子(かまご)だ…。
諸事情が絡み、現在俺は…茜居には仕えていないが。
しかし俺が茜居の家に関係する男だと言うことは―――
簡単に気付かれるのも、また事実。
このご時世に、まだ「刀」という武器を構えていること。
誰もが片腰に銃と薬を所持する時代だ。
古い言葉を使えば「ヤクザ」と「チンピラ」に差のない時代ということ。
喧嘩不成敗、勝敗は生死に等しい。
せいぜい護身や隠し武器としてナイフを併せ持つ奴が存在する程度だ…
そんな時代に、「茜居」は、家の歴史を重んじ剣の道を極め、腰に刀を差す。
華麗なる剣技を2000年も前から絶やす事無く、受け継ぎ舞っているのだ。
そして茜居の関係者である証として、茜居の剣術を使う者の刀の鍔には、
必ず茜居の家紋が入っていた―――。勿論、俺が使用している刀の鍔にも。
――――茜鳳凰の姿の、美しい家紋…
「………」
俺は、ネクタイを締めて 腰のベルトにいつも通り、 2本の刀を差した―――。
「…あれ、ヒデさんも外回るんですか」
「……ああ。…カズ、何処へ行ったか分かるか」
「カズさんなら、例の件で午後まで外回ってると思いますよ」
「…界羅は」
「宇羅ちゃんと、先日潰した“糸”の後始末に出てます。朝からでしたから夕刻前には戻るかと」
「…分かった。葉哉、お前は此処頼んだぞ」
「了解です」
茜居という家に対して俺が抱く言葉は、ただ1つ。
尊厳。
父と母が命を懸けて守り通した――― たった1つの物だから。
煙草に火を点けながら、錆びた階段を下り地面に降り立った。
土があるにも関わらず草も花も咲く事の無い大地…
代わりに鉄屑や硝子の破片が見え隠れするのは、人々の心の弱さのせいだと思う。
―――弱いからこそ、人を傷付けられる武器を持つ。
俺もそうなのかも知れない。
ジャリッ…と、右足のブーツが、土と一緒に硝子屑を踏んだ。
…此処はさながら、人気の無くなったスラム街の風景に近い。
生気のない廃ビルと風に舞って運ばれてくる埃と…ヤクの匂い。
昼夜を問わずに息絶え絶えに光る、色素の薄い外灯―――
寂れたというよりも“孤独”の方が余程似合う言葉と言えるだろうなと…いつも思う。
人は皆片腰に銃を携え、薬を商売道具に非道な人生を送る。
此の下の大地で真っ当に生きられるのは、ヘヴンから“仕事”で此処へ送られている者だけだろう。
食料と水を売る為に下へ送られてきた者、衣を売る為に下へ送られてきた者、
此の大地を監視する為に送られてきた者、そして…
此の大地の“廃棄物処理”の為に送られてきた、俺達という存在。
…今日はやけに大地が湿っていた。空気も重たい。
くわえた煙草に小さく火を点け終えると、俺はゆっくりと前に進んだ…。
何故俺はこんな場所で蜂をしているのか、と。
考えない事は無い。だが考えるだけで終わる。
―――理由を知っているからだ。俺がそれに見合っている、と。
蜂になる人間は、政府… つまり御上から命ぜられてこの職に就く者が多い。
代々警察の職に就く家もあれば、御上に腕を見込まれて蜂に勧誘・又は強制される場合もある。
勇午はその“強制”の代表例だ。
奴はヘヴンで詐欺と窃盗・薬の密売を働き続け、御上の牢にぶち込まれた野良犬だった。
だがしかしその身体能力と腕を買われて、「刑」か「蜂」かの選択を渡された。
刑を選んでも良かったと、勇午は言う。
―――それを貰い受けたのは、…俺。
有能な部下が必要だとこじつけて、俺は勇午を生かす為に自分のチームに引き入れた。
結果、俺に「莫迦」だの「いい加減にしろ」だの生意気な口ばかり利くどうしようもない部下になったが、
何があっても俺に付いてくる姿勢は、弟分としてこの上なく気に入っている。
葉哉も同類の“強制”。
奴は代々警察の職に就く家系の1人であったが、同時にヘヴンで軽い罪を犯した者…。
お陰様で、ヘヴンで安泰な警察をする筈だった野郎もこのザマ。
空気の悪い薄暗い、地下の世界の蜘蛛を制裁する蜂の生活だ。
ヘヴンから来た者は最初、大抵この地下の世界の空気の悪さに地獄を見る。
俺もそうだった。…異臭・シンナー臭・そして死臭。まず呼吸が出来ない。
とても人間が生きていける環境とは言えないだろう。
下手な者は1週間と保たずに死ぬ事もある。
加えて太陽の拝めないこの暗い世界―――。
ヘヴンから来た者は直ぐに分かる。
まず、この空気の悪さに衰弱し倒れる。
そしてまるで、表情が違う。
平和ボケの暢気な顔をしている…。
それに引き換えこの世界の人間は、何奴も此奴も目が死んでいる。
何処か据わっていて、生気と言うよりも殺気の方が多く混じっている。
また、此を見ても…俺も同じなのかも知れない。
肺の煙を深く深く吹きつけ、湿った空気に晒す。
上を見上げ、真っ暗な鉄板の空 クイーンに目を細めた―――…
あの鉄板は 一体… 世界に 何を求めているんだろうな。
ピピッ… ジーッ ピ・ ジジッ…
「―――、」
遠いクイーンに向かって煙草の煙を吹き付けた瞬間…
内ポケットのウィグ(通信機)が、雑な音を立てた。
チームの奴からの連絡だ…高度で薄っぺらな精密機械の液晶に相手の名前が出る。
―――何てタイミングの良い奴。こちらから掛けようと思っていた相手だ…。
「カズか」
『ああ!ヒデ、今パルプにいるか?葉哉は!?』
「いや、俺だけ少し出ている」
『ッ、そうか、だが丁度良い!19地区第6中央塔の方へ!』
「―――…どうした」
慌てたような叫びに、俺は言われた方角を睨んだ。
…塔。それは、このアングラの暗く湿った大地と、ヘヴンの地面であるあのクイーンを支えている、
いわば主柱だ。唯一、下の世界と上の世界を繋ぎ支えている鉄の柱。
クイーンが存在すると同時に常にこの大地に並在していた物であったが、
其れを利用して御上は、幾つかの塔にエレベーターを開発したりもしている…
あれを使って御上は此の下の世界を支配している―――。
そうつまり…あの塔を全て崩してしまえば、アングラもヘヴンも全てが消えるのに、と。
…無駄な世界崩壊と世界平和を、俺は何度思った事だろうか―――…
『張っていた例の“蜘蛛”が糸から動いたんだ!』
「…そうか。葉哉にはパルプを任せている、俺が行く」
『了解、っだが2人はキツい!、今他に応援頼める奴は』
「勇午だ」
『了解!』
ブツッ、と、ウィグが乱暴に切れる。
空気が重たい所為だろう、通信音は終始乱れいてた…
不快な音は、頭に残る。
嫌な日だ。
腰で、2本の鞘が揺れる。