この世の誰をも信じられなくなった時、
人は「絶望」という空間の中央に生まれるのであろうと思う
どれだけの空虚と痛みに耐えて生きてきたか分からない
だけどあれから、私を「椿」と呼ぶ君の声を
忘れた事は おそらく無かった
忘れたりしなかった私は、絶望の中で、まだ弱音を吐いていたのだろう…
今だから、そう思うんだ
【001:The world that became true】
薄汚い灰色の、あの靄のような排気ガスはもう何日張り巡らされたままだ。
数日微かな光さえをも拝んでいないだけで
この腐敗都市はあっという間にヤクの匂いで充満する…。
呼吸さえもが嫌になる…
もっとも、この地には太陽がマトモには降り注がない。
厚い鉄板のような地面が天井に敷かれるこの大地は、
光も知らなければ影も知らない、知っているのは「闇」だけだ。
…そう云う地区だと分かっていて配属されていることも、
自分の腕がそれに見合っていて指名されていることも、
そして何よりも自分を含め此処にいる全員が“お抱え者”だと言うことも、
全て 承知している。
が…ここまで空気の悪い地だと云う事だけは聞かされなかった。
この数年何度御上に訴えてやろうと思ったか分からない。
まずこれで健康に障害が生じたら保険は下りるのか?
どこからが健康保険になるんだ?怪我したら労災で良いのか?
……その時は訴えてみるか。最高裁まで行く覚悟で。
「いやいやいや…ヒデさんはその前に肺ガンを心配した方が良いんじゃないですか」
「・・・・・・」
名は、浅霧 秀兎(アサギリ ヒデト)。
上司同僚部下ひっくるめ、全てから「ヒデ」と呼ばれる…。
偉い者に諂うのは趣味じゃ無いし、部下を下僕扱いするのも性格じゃ無い。
仕事というものは何に於いたって1人でこなす物で無いと思っている。
常にチームワーク、常に背を預けられる仲間、常に信頼、必要なのはそれだけ。
だから俺は細かい事でああしろこうしろとは言わない主義であり、
ヒデと呼ばれようがクソと呼ばれようが、仲間なら、それは仲間と認識する。
…だからと言って慕われるほどの出来た人間でも無いけれどな。
ニコチンが無いと死ぬ様などうしようもない体質なくらいだ。
「そうですか?でも俺ら新人は大抵、ヒデさんを模範に生きてる奴らばっかですよ」
俺の横で、「はい灰皿」、と…俺の部下は安っぽいガラスの器を差し出してきた。
「ヒデさんは俺らの憧れですからね」
「…お前はいつまで新人なんだ」
「やだなぁ、ヒデさんから見たらまだまだ新人ですよ」
「阿呆か、所属3年目の奴が」
「俺と同じ22歳でリーダーになった人に、そう言われてもですねぇ」
ていうか煙草、何本目ですか。
最後にそう突っ込んで、優顔の部下はその顔を更に女じみた笑顔にした。
…女だったら美人だろう、とかそう言う種類の顔ではないのだが、コレが何故か結構女に可愛がられる。
生い茂った様な深い緑の外跳ねの髪、茶の垂れ目。世話好きの新妻の様な態度。
世渡りが上手い皮を被って生まれたもんだと、日々内心溜息をついていた。
古くは無いが新しくも無い、やや蒼白い厚いコンクリート壁のビルの2階が、
約4年前から俺が配属された地区の事務所だった。
大地は湿気だけを含み、根も草も無いただ廃棄物だけが転がる腐敗土…
風も無ければ雨も無く、外と中の温度差はさほど無い―――。
有るとしたら空気の清浄度くらいだ。
防弾硝子の分厚い窓だけが唯一の光の射し込み口であるが、
其れもただの気分転換――― 否、気休めにしかならないのが事実…
冷たいコンクリビルの壁は、今日も俺の煙草の煙を染み込ませるだけ。
静かでいて無機質な昼、其れさえもが常に銃声の叫びに怯えている警告音。
暗い「鉄の空」は… 春夏秋冬昼夜を問わない―――…
「しかし…一段と暗いですね。上でも天気悪いんでしょうか」
「…この調子だとまた小さい“蜘蛛”が動くだろう」
「―――何処か心当たりの“糸”が?」
「………ああ…」
「……捜査、回しましょうか」
「―――……」
SOLDDIA - AM 11:57
17th October / 2875
進化を繰り返して退化し滅びた嘗ての大都市に、
今「希望」と言う言葉は存在していない。
あるのは、上下という分かり易い言葉くらいである。
その言葉を実現しているのは、「上の世界」と「下の世界」の2つだ。
上に住む上流階級と、下に住む下流階級、つまり“主と奴隷”の世界。
そして銃と薬と 政府という名の組織と 違法者という名の組織。
この世界が上下ハッキリと分かれたのはいつだったのだろうか。
人が作った物だと言い張る奴もいれば、神が創造した物だという信者もいる。
この大地には、空との間に 1枚の鉄板がある―――。
名を、「クイーン」。…“女王”。
その上に住む人間達が、上流階級。
太陽を浴びて生きる。
そしてその下に住む塵達が、下流階級。
暗闇の世界で血反吐を吐く。
その情景に相応しく、
上の世界を「ヘヴン」 下の世界を「アンダーグラウンド」と呼ばれた…。
それは上流者達が、世界の汚れを見て見ぬ振りするために作られたと…
そう言い張るのはアングラの者達。
それは神が創造した、生まれ持って人々に階級が備わっているのだと…
そう言い張るのはヘヴンの者達。
そしてその逆転の発想がもう1つ。
…下流者達が、“蜂”の目の届かぬ所で“蜘蛛”となるために作った…という論。
どれも理に適っていて全く論理的で無く、全てに於いて持って証拠が無い。
果たしてどれが真実なのかなんて…そんな事は今更分かりっこ無いし興味も無かった。
ただ分かるのは、この鉄板が、この腐った世界を創っていること。
―――下の世界の見えぬ所で、上の世界が甘美に満ちた生活をしていること。
―――上の世界の見えぬ所で、下の世界が… 地獄の生活をしていること。
激震を繰り返している事。
警察という職業は、非常に汚い仕事だった。
「警察官」を「蜂」などと呼ぶ。
そして警察の巣を「パルプ」と称す。
そして逆にホシを、「蜘蛛」と呼ぶ。
犯人のアジトは、「糸」。
蜘蛛の天敵が蜂であることから、悪と正義の名がこうなった。
それも遙か昔からの話で、誰が何時何処で定義化させたかなど知らない。
蜘蛛とは、アングラにてヤクの密売を中心に活動する粗悪組織を意味した。
組織は数十人の組織員から成る小さな団体で、
各地区に数十、数百、と点在し 主に薬の密売をヘヴンとアングラにて行っている。
生まれた時からアングラの住人、ヘヴンから堕ちてきた人間、種類は様々。
下の世界では此が当たり前と言わんばかりに存在し、手に負えなくなっているのが事実だ…
奴らはアングラの何処にでも存在し、常にヘヴンの人間…特にこの世を制定させている“政府”、
いわゆる“御上”を潰そうと数百年も前から悪行を働き続けてきた。
蜘蛛達は暗い鉄板の下を利用して糸で作る巣を張り巡らせいき、
年を重ねる事徐々に組織を大きくしている。いずれヘヴンに上るつもりなのだろう…
その証拠に、現在ではアングラからヘヴンに不法先入し薬の密売を行う者さえ続出している始末だ。
ヘヴンの悪大名を中心に僻地のスラムにまで、高く売り付けヘヴンでの名実を手に入れようとしているらしい…
アングラからヘブンへ上る方法は確かに幾つか存在するが、それらは全てヘヴンの政府によって管理されている―――
よってアングラの人間が容易に上下を行き来など出来るはずが無い。
となると、政府に蜘蛛への内通者が居る、としか考えられない。
それを察知した上流階級者がいる。
…否、上流階級者でなくとも気付くのが自然だろう。
其の為に、「ヘヴン」から「アングラ」へ送り込まれたのが――― 俺達。
“蜂”と呼ばれる“暗殺許可警察組織”だった。
普通、13人1チームで組まされている。
蜘蛛という組織を潰し、撲滅すること。
そして、アングラへ手綱を下ろしているヘヴンの人間を割り出すために、
生き残った者を政府へ渡すこと。其れが俺達蜂の主な仕事…。
俺はこの鉄板の下の、SOLDDIA6番街19番地区のチームのリーダーを
上の世界の政府(通称“御上”)から命ぜられていた。
…こっちに降りてきてから、もう、4年が経つ。
暗殺許可警察組織とは言うが、仕事は「殺し」そのものと言っても過言じゃない…。
下の世界で、ヤクを密売する者・密輸する者、上の世界への謀略を図る者…
そんな連中の始末が俺達「蜂」の仕事。
別名―――「廃棄物処理組織」。…酷い名だ。
名も仕事も、気持ちのいい物では 無い。
だが今日も蜂は暗い鉄板の下パルプの巣に籠もり、辺りを見回し、
…こうやって健康の不安だの保険だの告訴だの考えている。
そう言う世界だ…
男は皆 悪魔か、正義の面した目的の無い奴らばかり。
女は皆 淫売か、悲運に泣く可哀想な奴らばかり。
そもそも俺には、何故アングラの人間がヘヴンへ行く事が“不法”なのかが分からない―――。
薬の密売に関しては、全身全霊を持って蜂の仕事をこなそうと思える。
…が、何故――― アングラの人間はヘヴンに入ってはならない。
……上の人間と下の人間との境目を作ったのは… 誰だ。
何が、違うのだろう。 …ヘヴンから不要な人間は、アングラへ落とすくせに。
何故アングラの人間だけは、始めから“不要”と扱われる―――
「莫迦ですか、アンタ」
「・・・」
冷たい空気に煙を漂わせて、その煙が湿気で落ちていくのを見ていた。
灰がチリチリと赤く燃えるのさえ、この鉄板の空の下では明るい…
「あッお早うございます」
「おー」
その明かりを見て、皮肉をたっぷりと込めたその薄目で俺を睨む男が
ついでに嫌味もたっぷりで俺に近付いてきた。
「勇午、お前いい加減定時内に起きてこい…何時だと思ってる」
「ヒデさんこそ、いい加減勤務中にスパスパと煙吹くのやめろってんですよ」
「勤務中の煙草がいつ禁じられた」
「定時内に出勤して一体誰が何を得するんスか」
損得じゃねーだろうが。
そう言いながら俺はボサボサ頭のその若造を見て口元を緩めて笑う。
さっき渡されたガラスの灰皿に俺の原動力であるニコチンの棒を押しつけた…
「せめて髪の毛を直せ、それからネクタイもちゃんと締めろ」
「そっちこそ、こんな時間にそんな明かり灯してたら、あっちゅー間に“蜘蛛”に落とされんだろーが
莫迦も大概にして欲しーんですよヒデさん、アンタそれでリーダーか」
「・・・・・・」
今更だがこの組織には、仲間と言うより「敵」に近い連中の方が多い。
―――改めてそう思う。よくこんな組織の頭をやってるもんだ俺は…
ことごとく俺に暴言と喧嘩をぶつけてくるこの若造が、瀬良勇午(セラ ユウゴ)
若干18でこの組織に入り、僅か2年、20歳で監察の頭に成り上がった天才。
蒼銀の髪、葡萄色の目、気怠い表情…まだ餓鬼の面をした少年だ。
だが口は悪いし態度も悪い行いも悪い、しかし仕事は恐ろしい程に出来る。
お陰で―――
「勇午君、朝食まだでしょう。何食います?」
「あぁ…いらねぇ。今から外回ってテキトーに済ませる」
「…そうですか?」
この優顔、黄崎葉哉(コウサキ ハヤ)はコイツより先輩であり年上であるにも関わらず、
下っ端として扱われ扱き使われ。…挙げ句、コイツもコイツでナチュラルな程の後輩状態。
…俺は上司がどーの部下がどーのと五月蠅く言わない性格だから、
本当にどうでも良いっちゃどうでも良いのだが…。
ただ仲間であるという、信頼感だけが あれば
「所でよぉ、ヒデさん」
「何だ」
ほぼ90%朝飯を目的に、外出の準備を整える勇午がいる。
黒のスーツに黒のネクタイ、それが俺達“蜂”の基本制服だ。
がしかしこの制服は、御上(政府)から1,2年に1度のみ支給されるモノであって、2度目は無い。
1度でも仕事でボロをすれば、一瞬で蜂としての姿は暫くお釈迦という…。
…お陰で今となっては、マトモに着てる奴の方が少ない。
「―――ちょうど1年くらいになりますかね」
「…何がだ」
「忘れちまいましたか」
「……だから、何がだ」
ハッ、と、勇午が乾いた声で笑う。
ネクタイの締め方は、中坊かお前はと言いたくなるほどの適当さだった…
「あの“茜居”に女が嫁いでから1年、ですよ」
「―――………」
ああ…と、俺は目を細めた。
……勇午はゆっくりと歩き出すと、腰のベルトに銃を納めた。
そして最後にデスクからジャケットを掴み、
片手でそいつを肩から担ぐように持ったまま、俺を振り返る。
「最近得た情報です。…“跡継ぎ”が、生まれたらしいぜ」
「―――、跡継ぎだと…?」
「エエ。じゃ、行って来ます」
「…、オイ、勇…」
相変わらず、起床は遅いが行動は速い。
気付けば窓の外を、颯爽と走っている勇午の背中が見えた。
ヒャー、と隣で葉哉がその風の如くを見送っていた…
俺もようやく、ネクタイを締める気になった。